【縣居通信4月】
『万葉集』裏話 ~日の目を見なかったかもしれない『万葉集』~
『万葉集』は、平安時代末期に成立した日本最古の和歌集です。天皇や貴族から農民、防人まで、さまざまな身分の人が詠んだ歌や作者不詳の歌、約4,500首が20巻に収められています。歌の類別の主なものとしては、宮中の祭式などの機会に歌われた公的な雑歌(ぞうか)、男女の恋愛を主とする相聞歌(そうもんか)、死者の埋葬や哀傷の挽歌(ばんか)などがあります。歌の形態は五七五七七の短歌を基本としつつ、長歌中心となっています。表記に関しては、この時代には日本固有の仮名文字がなかったため、すべて漢字を用いた万葉仮名となっており、成立に関しては、大伴家持(おおとものやかもち)が編纂(へんさん)にかかわり、783年ごろに完成したとされています。
しかし、『万葉集』はその後約20年間、人の目に触れることがありませんでした。それは、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件に端を発します。785年、大伴家持の死後、長岡京造宮監督中の藤原種継が矢で射られて暗殺されるという事件が起こりました。藤原種継は、平城京から長岡京への遷都(せんと)を計画・実行した中心人物です。この遷都に賛成する勢力と反対する勢力との権力闘争でしたが、種継と対立していた早良親王(さわらしんのう)も事件に関与した罪に問われ命を絶つなど、皇室を巻き込む大事件にまで発展しました。これは、その後の長岡京から平安京への短期間の遷都になった要因の一つともいわれています。
大伴家持は、すでに亡くなっていたにもかかわらず、この暗殺事件に関与していたとされ、官位を剥奪(はくだつ)されてしまいました。そのため、『万葉集』の最終的な完成は、家持が恩赦(おんしゃ)により罪を許された806年以降ともいわれています。実は、この恩赦がなければ『万葉集』は、日の目を見ずに終わった可能性があった和歌集なのです。もしかしたら、真淵が生涯をかけて研究した『万葉集』は存在せず、宣長が35年の歳月をかけた『古事記伝』も完成に至らなかったかもしれません。
藤原種継は奈良時代末期の官人で、桓武天皇の信頼が厚く、政務をほとんど決断したといわれます。また、造長岡京使に任ぜられるなど、平城京から長岡京への遷都に関わるの中心人物です。しかし、専権のため皇太子早良親王と対立したり、遷都に反対する諸臣の嫌うところとなったりして、785年に大伴継人(おおとものつぐひと)、佐伯高成(さえきのたかなり)らにより射殺されました。
大伴家持は奈良時代末期の官人で、三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)の一人に数えられた歌人でもあります。衰運(すいうん)に向かいつつあった名門大伴家の首長として一心に苦難を背負いました。家運挽回の望みをかけて桓武天皇の皇太子である早良親王に近侍しましたが、うまくいかず、785年、死の25日後に、大伴継人、佐伯高成らによる藤原種継暗殺事件が起こり、関与していた主要な罪人という理由で名籍(みょうせき)を除かれました。息子である永主(ながぬし)らも流罪に処せられました。その後、806年に罪を許されて本位に復帰しています。
早良親王は桓武天皇の弟で皇太子でしたが、785年の藤原種継暗殺事件に関与したとされて捕らえられ、絶食し淡路に移される船の中で絶命しました。その後、皇太后、皇后など皇室関係者が相次いで死亡したり、皇太子が流行した悪疫にかかったりしましたが、これを早良親王の祟(たた)りと恐れた桓武天皇は、早良親王に崇道(すうどう)天皇の称号を贈ったり、その墓を改葬したりしました。
参考:「日本歴史大辞典(河出書房)」「日本史大辞典(平凡社)」「日本古典文学大辞典(岩波書店)」
