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縣居通信


【縣居通信7月】
真淵が生きた江戸時代中期 その3
 橘千蔭(たちばなのちかげ)は、伊勢松坂から江戸に出て、町奉行・大岡越前守の組与力として出世をした父・橘枝直(たちばなのえなお)の後を継いで、江戸町奉行の与力として活躍した幕吏であり、県門の四天王と言われた真淵門下の多才な弟子でした。

真淵の弟子・橘千蔭(たちばなのちかげ)と老中・松平定信
 真淵は寛保2年(1742年)2月、46歳のとき、茅場町に千蔭の父親である枝直に地所を借りて家を構えました。門人が多くなり、来客が増えて生活も安定してきたからです。

 真淵の研究者の小山正氏は、真淵の弟子の村田春道(村田春海の兄)と親交があった縁で、枝直は真淵を家の近所に招き寄せ、自分の勉強と千蔭の教育に当たらせたのではないかと推測しています。

 その後、千蔭は老中・田沼意次の側用人として、長い間、司法与力として事件や訴訟の裁定に敏腕を振るいました。書家としても名高く千蔭流の流祖でもありました。

 老中が田沼意次から松平定信に代わると、田沼時代の役人を多く罷免するに及んで、千蔭は自ら病と称して職を辞することになりますが、逆境に屈することなく和学や歌文などに本腰を入れ、文芸の世界で幅広く活躍しました。

 田沼時代が終わった後の老中・松平定信は、幕政を断行して田沼時代をことごとく否定しました。千蔭の前妻(故人)の実家・深谷氏が田沼意次の側近であったことにより、千蔭は松平定信から何かと睨まれ、ついには50石減俸、百日閉門を命ぜられるのです。
 宝暦8年(1758)9月25日付の梅谷市左衛門宛賀茂真淵書簡(浜松にいる真淵の息子への手紙)に、「第一地主加藤要人(かなめ:枝直の名)か妻は、田沼の用人深谷市郎右衛門娘に候へば…」(賀茂真淵全集23巻)とあることによっても加藤家が田沼意次と近しい間柄であったことが分かります。

 閉門の憂き目に会った千蔭でしたが、その後『万葉集略解(まんようしゅうりゃくげ)』32冊(版本)の「万葉」全巻注釈書を手がけました。
 これは、『万葉集』の注釈書で、契沖をはじめ、真淵や宣長などの今までの説をふまえた分かりやすい注釈を加えたため、『万葉集』の入門書として人々に広く読まれました。