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縣居通信


【縣居通信6月】
習字の手本によく書かれた歌といえば…
難波津(なにはつ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花 王仁(わに)  出典:『古今集仮名序』
 当館の展示室入口の右側に「難波津に」の歌の説明パネルがあります。この歌が書かれた『手本貼り賀茂真淵画像』は、平常展や特別展の展示物の一つとしてよく展示されています。
 「難波津に」の歌は習字の手本によく書かれ、『源氏物語』や『枕草子』にも出てくると説明されています。

「難波津に」の歌はどのようにして人々に親しまれてきたのか?
○作者の王仁(わに)について
 5世紀前半以前の百済から渡来したという伝説的人物で、古代の百済系の渡来人です。
 『日本書紀』の応神15年条に百済からきた阿直岐(阿知使主)が優れた博士として、王仁を推薦し、その後、渡来して典籍を教えたという記述があります。
 また、『古事記』には『論語』や『千字文』をもたらしたとあります。
 応神天皇のとき、百済王が王仁に『論語』10巻、『千字文』一巻をつけて貢進したといわれ、王仁の一族は文字の使用と普及に貢献しました。子孫は、文筆や記録に関することで朝廷に仕えています。

○「難波津に」の歌について
・歌の意味
 難波津に花が咲いたことだよ。冬の厳しさに耐え、今はもう春になったので咲いたよ、この花が。(この花とは、梅のこと)
・この歌は、仁徳天皇の即位を祝って詠んだ歌といわれています。
・『古今和歌集』(905)の仮名序で、紀貫之が「歌の父母のようにてぞ手習ふ人の初めにもしける」と紹介しているように、習字でまず習うのがこの歌であり、昔からよく知られた有名な歌でありました。
・平安時代の『源氏物語』(1008)にも、光源氏がまだ幼い紫の上に結婚を申し込んだ際、祖母が「まだ難波津の歌さえもちゃんと書けない子どもですから」と答える場面が出てきます。(若紫の巻)
・出土した木簡に書かれた和歌の半数以上が「難波津に」の歌で土器にこの歌を書いたものもあり、習う人が多かったことが分かります。(奈良時代に万葉仮名で書かれました。)
・百人一首の競技の初めに序歌として朗詠されるのが、この歌です。