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縣居通信


【縣居通信4月】
賀茂真淵が仕えた名君 田安宗武(たやすむねたけ)の人物像に迫る
 賀茂真淵は、四十歳を過ぎてから江戸に出ました。平均寿命が四十歳にも満たない江戸時代にあって、相当の覚悟をしての江戸への旅立ちでした。居を転々としながら生計を立てていた真淵でしたが、その才能を認め和学御用として取り立てたのが他でもない田安宗武でした。

名君 田安宗武
 田安宗武(1715―1771)は、第8代将軍徳川吉宗の次男として江戸赤坂紀州藩邸で生まれました。江戸城田安門内に邸を頂き、真淵が和学御用になった延享3年(1746)9月、弟一橋宗尹(むねただ)とともに十万石を頂きました。のちの清水家とともに御三卿と言われ田安家はその筆頭でした。なお田安宗武は賀茂真淵より18歳年下です。享保の改革で名を残した徳川吉宗が父であり、寛政の改革の行った老中松平定信は宗武の七男になります。宗武自身も文武両道で英明、またとても真面目で、「書もよまであそびわたるは網の中にあつまる魚の楽しむがごと(読書モシナイデ遊ビ続ケルノハ、チョウド身ノ危険ガ迫ルノモ知ラナイデ網ノ中ニ集マル魚ガ楽シンデイルヨウナモノダ。)」(『悠然院様御詠草』『近世和歌集』所収)と勤勉の心を詠んでいます。

 宗武は、少年期より和歌に親しみ、享保13年(1728)江戸に出て来た荷田在満(かだのありまろ)に古学・歌道を学びました。延享3年(1746)に荷田在満は田安家の仕官を辞し、代りに賀茂真淵を推薦しました。以後、宗武は、真淵を師とし、宝暦10年(1760)まで重用しました。
 宗武の詠風は、はじめ堂上風の伝統主義的なものでしたが、次第に万葉集の影響を深く受け、清新な発想を古風な調べにのせた独自の歌風を築きました。死後、侍臣らが編纂した家集『天降言(あもりごと)』に和歌三百余首が収められています。また、これに紀行文や和歌を補った『悠然院様御詠草』があります。

こんなエピソードも・・・
田安宗武は、当時、兄の家重より遙かに才能に優れていると言われ、また、徳が高く、人望もあったので幕臣の多くは、彼が吉宗の次に将軍に就任することを望んだと言われています。しかし、吉宗は、長男家重をそのまま第9代将軍としました。徳川吉宗の老中として信任を得ていた松平乗邑(まつだいらのりさと)がある時吉宗に「公の晝夜御苦労あらせらるる諸向きの御掟も、御跡の君之を守らざれば実に天下の大不幸である。田安殿ならば、ますますこれをよく成さるるとも決して悪くはなされざるべし」といったところ吉宗は「予もさは思ふものの、予において嫡庶の順を替へなば諸大名の之に倣うものが出て来るであろう。それは天下大乱の基であるから、是非に及ばぬことなり」と長大息したと伝えられています。その後、吉宗は隠居し、将軍職を家重に譲りました。

参考:「明解 賀茂真淵」寺田泰政著 浜松史蹟調査顕彰会
  「田安宗武」 土岐善麿著 日本評論社