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縣居通信


【縣居通信3月】
徳川家康と賀茂真淵 ~知られざるその関係とは?~
 徳川家康と賀茂真淵は、同時代には生きてはいません。しかしながら、徳川家康と賀茂真淵とは深い関係があるのです。今回は、徳川家康と賀茂真淵の知られざる関係について紹介します。
 本居宣長はその著書『玉かつま(六の巻)』の中で、賀茂真淵を生んだ岡部家について次のように述べています。  
〝かくて世々(代々)かの神主たりしを、大人(うし)(真淵)の五世の祖、政定(まささだ)といひし、引馬原(三方原)の御軍(みいくさ)に功(功績)有(あり)て、東照神宮御祖君(徳川家康公)より、来國行がうちたる刀と丸龍の具足(ぐそく)とを賜はりぬ〟
 〝三方原の御軍〟は元亀3年(1572)武田信玄の遠州侵攻を、徳川・織田の連合軍が迎え撃った三方原合戦のことです。また、真淵の研究で有名な小山正氏は〝政定は百五十人余の各自に投げ石を持たせ、大久保忠世率いる十六人の鉄砲隊とともに間遠から陣所(武田軍)に接近させて、不意にその背後から襲撃し、犀ヶ崖(さいががけ)には布橋(ぬのはし)をつくって待った。すると、狼狽(ろうばい)した信玄の兵は、われ先にとこの布橋にさしかかって深い谷底に転落し、背後から押し寄せた味方を浜松勢と勘違いし、ただ逃げ惑い、犀ヶ崖の谷間は数十百の軍兵の屍(しかばね)で埋まったという〟と記しています。(『賀茂真淵伝』)その時の褒美(ほうび)で岡部政定は、岡部家を中岡部、西岡部、東岡部の三家に分家し、賀茂真淵は、その東岡部の隠居(いんきょ)家の与三郎家で生まれたのでした。
 さらに真淵の母の実家も徳川家康と繋がりがあるのです。真淵の母の実家は、長上郡天王村の竹山孫左衛門茂家でした。同家の初代は室町時代末期に始まる高森太郎左衛門重治とされ、江戸時代には、伊場の岡部家と同様に独礼庄屋として地域のリーダーを勤めました。天王村の屋敷は、年中鳥が集まるような大きな竹藪に囲まれ、徳川家康も鷹狩でこの邸に寄り、「竹山、竹山」と呼んだことから、高森姓を竹山姓に改めたとされています。家康は、前庭の梅の木に鷹狩の鷹を止まらせ、この老梅は鷹宿梅(おうしゅくばい)として大切に育てられました。そして、竹山家には、「梅系図」と箱書きのある古い掛軸が伝来していて、白い花をつけた梅の古木の絵と、真淵の歌が書かれています。
 「かけまくもかしこき、下つ毛野の国ふたら山に鎮りませる大神の、むかし遠津淡海の国曳馬の城を敷ます時、御狩の折々、竹山が家の梅こそおもしろけれとて御馬寄させ給ひ、薫り栄ゆる枝に御鷹をすえ置かせまうして、御きゝこしをし、めでまししなり。
 今ぞ百まりに多くの年を経ぬれど、その梅のしづ枝さし次て春の常盤ににほひ、此家も太くひろく栄へ伝れる事おのれしも母としのよすがもて、 辱(かたじけなく) 御故よしを 伝へうけたまはり、よろこほひて古き調をうたふ」

大君の みそてふれけん 梅かえの今もかをるか あはれそのはな
(大君の御袖触れけん梅が枝の今も薫るかあわれ其の花)