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縣居通信


【縣居通信6月】
県門の四天王 村田春海(むらたはるみ)~その波乱に満ちた人生とは?~
 令和3年度の縣居通信で村田春海についてお伝えしましたが、今回はその波乱に満ちた人生について少し詳しくお伝えします。

 村田春海は、県門の四天王として知られ、賀茂真淵の死後、真淵の作品を集めた『賀茂翁家集』の刊行に尽力した人物です。
 村田春海は、江戸日本橋の両替商にして深川の豪商干鰯問屋の次男として延享3年(1746)に生まれました。父春道、兄春郷に倣って、十代のはじめのころ真淵に入門し、詠歌と学問を学びました。宝暦13年(1763)、かの有名なエピソード、新上屋での真淵と宣長とのたった一夜の出会い「松坂の一夜」があった真淵の大和旅行に他の者と一緒に同行していたのが18歳の村田春海でした。
 しかし、この有名な「松坂の一夜」のエピソードの中には春海は登場していません。隣の部屋で、兄春郷と共にくつろいでいたという説や盛り場に繰り出していたという説もあります。真淵の大和旅行に同行するほど重用されていた春海でしたが、その後、波乱に満ちた人生を送ることになります。

 明和5年(1768)9月兄春郷が30歳の若さで死去しました。この事態に、養子に出されていた次男の春海が呼び戻され村田家を継ぐことになりました。不幸は続くもので、翌明和6年(1769)父春道が、また、同じ年に師である賀茂真淵が相次いで亡くなりました。春海には家長としての自覚、国学者としての自立が同時に求められることになりましたが、次男坊として育てられてきた春海にとって独り立ちすることは容易なことではありませんでした。一時、春海は国学から離れ、家業にも身が入らず放蕩三昧に明け暮れ、江戸新吉原の花柳界・演芸界で豪遊して、※「十八大通(じゅうはちだいつう)」の一人に数えられ、村田屋帆船と呼ばれていました。また、吉原遊郭丁子屋のナンバーワンを妻として迎えたりもしました。そして、そんな春海の豪遊がたたって、ついには実家の干鰯問屋は破産の憂き目にあってしまいました。
※「十八代通」:江戸の遊里などで派手に振る舞い通人を気どった一群の江戸の富裕商人のこと

 どん底に落ちてしまった村田春海が再び、詠歌と国学に打ち込むようになったのは何と20年後のことでした。天明7年(1787)8月、42歳の春海はそれまでの生活を改め、学問の道に戻ろうと意を決して京都に向かいました。そして、そこで本居宣長と出会ったのです。宣長と出会ってからの春海は、心を入れ替え再び学問に打ち込みました。県門の四天王の中にも春海のような波乱に満ちた人生を送った国学者もいたのです。