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縣居通信


【縣居通信12月】
賀茂真淵と『万葉集』 ~万葉への目覚めと母の教え~
秋の夜の ほがらほがらと 天の原 てる月影に かりなきわたる
(秋の夜、明るく晴れ渡った天空を照らす月の光に映えて、雁が鳴きながら空を飛んでいくことだ)
 明和元年(1764)、五月十三日の夜、真淵翁は、浜町に新たに構えた「県居」において、多くの友人や門人を招き観月の宴を開きました。この歌は「九月十三日県居にて」と題し披露した連作五首の一つで、「かりなきわたる」は次の万葉歌二首から採られています。
「家さかり旅にしあれば秋風の寒き夕に雁鳴き渡る」(『万葉集』巻七 1161)
「葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る」( 同 巻十 2134)
 真淵が万葉調に目覚めたのは、幼少のころの両親からの教えでした。後年、真淵自身が『歌意考』で次のように母親の言葉を紹介します。
「近ごろそこたちの、手ならふとて、いひあへる(後世風の)歌どもは、わがえよまぬおろかさにては、何ぞの心なるらむもわかぬに、このいにしへなる(歌)は、さこそとはしられて、心にもしみ、となふるにもやすらけく、みやびかに聞ゆるは・・・」
 真淵の母親は、後世風の歌よりも、古歌のほうがずっと人の心を打つものだと言っているのです。母親の古歌のよさの指摘が、後の万葉歌人賀茂真淵を生むことになるのです。また、京都での荷田春満(かだのあずままろ)の教えも、忘れることはできません。春満は自ら詠歌の「万葉かな」書きを試み、門人たちにも奨めていました。「万葉」の文字使いにならった表記によって歌を詠むことが、「万葉」の心を知ることにつながると考えたのです。

 晩年、真淵は門人たちに自著『にひまなび』で次のように教えています。
万葉集を常に見よ。且我歌もそれに似ばやと思ひて、年月よむほどに、其調も心も、心にそみぬべし。
 我が国現存最古の和歌集である『万葉集』は、その後の歌人たちに、必ずしもすべてが受け入れられたわけではありませんでした。例えば、鎌倉時代の歌人、藤原為家は、「ほがらほがら」や「べらなり」などは、「物わらひにてあるべし」として「まねぶべからず」と言いました。しかし、江戸時代になってから真淵は「ほがらほがら」や「めでたき」などの言葉は、「一向に嫌へるは頑なにぞ侍るべき」として、万葉語を使うことは問題がないと言っています。
 真淵によって見直され、門人たちを通して広められた『万葉集』は、その後の日本の歌壇に改めて大きな影響を与えるようになりました。