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縣居通信


【縣居通信7月】
真淵の遠江の弟子・栗田土満(ひじまろ)と孫弟子・石川依平(よりひら)
 真淵の優れた弟子の一人である栗田土満は、現在の菊川市中内田に生まれ、内山真龍(またつ)と並んで遠江国学の中心人物でありました。
 明和4年(1767)の春、31才のときに父信安の許しを得て71才の真淵に入門、日本橋本石町の伯父・栗田新七方から真淵の家に教えを受けに通ったといわれています。当時の学友に、加藤千陰(ちかげ)、加藤宇万伎(うまき)、楫取魚彦(かとりなひこ)などがいました。また、内山眞龍とは水魚の交わりを結んでいました。
 入門後、ほどなく郷里に帰り、その後は手紙のやり取りによって真淵から教えを受けたのです。

それでは、土満は真淵からどのような指導を受けていたのでしょうか?  まず、学問への取り組み方や心構えを真淵は次のように教えています。
 「総て学問はかく心得給へ。自ら学あれば錐袋(きりふくろ)を脱すといひて自然と顕(あらわ)るるなり。いまだなる間又は俗士にほこる人は遂に学の就りたるは無し。おのれ此れが如くかまへて黙しをれば今は天下に名を得たり。名聞好む…」(『賀茂真淵全集 第23巻 縣居書簡続編』栗田土満宛書簡より)
 「錐袋を脱す」とありますが、才知の優れた人は、隠れていても必ず人に知られるという意味です。このほか、強い感動を受ける教訓がいくつかあり、土満は真淵に強く引き付けられたようです。
 歌道は国学の中で大きな分野であったので、真淵は土満に懇切丁寧に教えました。
 土満の勉学の様子を物語る日記のような資料は残されていませんが、真淵の「日本紀訓考」「祝詞考」などの書入本(かきいれぼん)を借りて、真淵の筆跡まで似せて忠実に写したといわれています。このように土満は、30才過ぎから師真淵の書入れを写すことに努力を払っていました。

 明和6年9月、真淵から土満に身体の不調の経過を伝える手紙が届きました。10月30日、真淵は逝去します。師弟の期間が2年余りではありましたが、土満の悲しみは想像を超えるものがあったと推察されます。
 文化5年(1808)、土満が72才のとき、石川依平が18才で土満に入門しました。土満は晩年におよんでよい門人を得ることができたのです。
 この時、依平は土満に歌をお願いすると、「心あらば、たづねてもとへみわの山すきにし神の代々のふること」と歌を書いて与えました。依平は即座に「みわの山杉たつ門も見えわかぬ霞の中のみちしるへせよ」と返歌しました。この返歌は栗田家に今も所蔵されています。
 依平が入門して4年目に、土満は没したわけですが、その間、依平が専心勉学したことはいうまでもありません。