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縣居通信


【縣居通信3月】
偉大な国学者 賀茂真淵の素顔に迫る~真淵の心にはいつも故郷・浜松があった~
 学問のために41歳で江戸に出て、73歳で亡くなるまで30年余り、故郷浜松を離れて暮らしていました。故郷浜松に対して真淵はどのような思いを持っていたのでしょうか。
 真淵は、江戸に出たばかりの頃は家のことなどもあってよく浜松に帰っていました。しかし、次第に門人が増えると共に、出入り先も増えて研究にも追われるようなっていきました。そして50歳のときには、田安宗武の和学御用という重職に就くことになり、浜松とは途絶えがちになっていきました。
 しかし、いつも故郷のことは心にあり、45歳のときには次のような歌を作りました。
 越ゆかば われことなしと かひがねの あなたにつげよ 春の初風
[弱々しい春の初風がもし富士を越えることができたなら、故郷の人に我が無事を伝えてほしい]
 また、真淵が田安家に仕える前には、“初雪の歌”を作り、望郷の思いを印象深く詠んでいます。
ふみわけて 今もみてしか 遠つあふみ 
浜名のはしに ふれる初ゆき
[踏み分けて、(江戸に出ている)今も(古里にいるときと同じように)見たいものだ、遠江の浜名の橋に降っている初雪を]

 真淵自身、生涯を江戸で終わるつもりはなく、自分の興した田安家の士たる家格を血統の伝え得る見込みさえつけば故郷に帰ろうという思いは年とともに強まっていったようです。宝暦7年(1757)真淵61歳の時、生家の甥與三郎に宛てた書簡にも、「江戸見物も、我々が江戸にいるうちにしたほうがよい。」と記しています。また、その翌年にも「勤めから身を引いて少し気晴らしをしようと思っているので、故郷のみなさんのところにも参上してお目にかかり、ゆっくりさせてもらおうかと今から楽しみにしています。」と書いています。さらに、宝暦10年(1760)64歳のときの書簡には、「私は大変年老いて、何事にも心が晴れず、故郷が恋しくなるばかりだ。・・・・」と書かれています。

 このように望郷の思いは増していったものの研究は思うように進まず、隠居後も殿の御用があり、また家内の事情も変化してきて、故郷へ帰って住むことは望み薄となっていったようです。そこで、67歳の時に大和旅行をする途中に故郷に立ち寄ることをもって、生涯最後の帰郷とすることを決心したようです。この折には20日ほど浜松に滞在し、いろいろな人と会って懐旧談に浸ったことと思われます。
 以来、真淵は書簡などによって故郷を偲んだだけで、すでに決心して自らの墓地まで決めて江戸で逝かれました。真淵の胸中に最後まであったのは故郷・浜松の美しい自然や人々の温かな心だったのではないでしょうか。