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縣居通信


【縣居通信7月】
五十音図が今のような形になったのはいつ?
 五十音図は、平安時代中期には既にあったとされていますが、行も段も現行の順序とは違っていて、庶民の間では、言葉を並べて仏教の教えを説いたとされる「いろは歌」が使われていました。現代の五十音図の形は、賀茂真淵をはじめ国学者たちの研究によりできあがり、さらに近代の国語学者により深められてできあがったものです。

それでは、五十音図が今のような形になったのはいつでしょうか?
 最初に五十音図の名称を使ったのは悉曇学(しったんがく)(中国や日本における梵字に対する音韻の学問)を学んだ契沖(けいちゅう)により元禄8年(1693)にまとめられた「和字正濫鈔(わじしょうらんしょう)」でした。これを発展させたのが、真淵の「語意考(ごいこう)」です。真淵の学問は、古言(こげん)-古意(こい)-古道(こどう)という形をとっていますが、これらを体系化してまとめたものが五意考と総称される著作であり、真淵最後の著作が「語意考」です。
 真淵は「古語を釈(とく)には五十音韻を委(くわ)しくすべし」と述べています。真淵の功績は五十音図をもとに、各段に名前を付けたこと、活用を統一的にとらえたことです。

 真淵の「語意考」の五十音図には、「ア行にヲ」「ワ行にオ」とありますが、これを今のように「ア行にオ」「ワ行にヲ」と正したのは、本居宣長たちでした。宣長の研究は、国語学を目指して行われたのではなく、「上代の事をつまびらかに明らむる学問」のための手ほどきとして行われたのですが、安永5年(1776)本居宣長が47歳のときに刊行した「字音仮名用格(じおんかなづかい)」で、平安時代以来の五十音図の「オ」と「ヲ」の場所を改訂したものを記し、数世紀にわたって権威をもって継承されてきた五十音図を改訂したのです。これは、よほどの証拠を用意しない限りできないことでありました。(8月号に続く)