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縣居通信


【縣居通信10月】~2019年は真淵翁没後250年
真淵翁孫弟子“高林方朗(たかばやしみちあきら)”と浜松城主“水野忠邦(みずのただくに)” …身分は殿様と庄屋、しかし学問の上では、殿様が教えを乞う師弟
 
 賀茂真淵の孫弟子、高林方朗は、国学の樹立に尽力した真淵翁を敬愛する念が強く、真淵翁五十年祭の挙行や真淵の御霊を祀った縣居翁霊社の建立にあたって、遠江の門人たちの中心となって尽力した人物です。
 その方朗は、浜松藩有玉村の庄屋であり、唐津から浜松に入封した浜松城主水野忠邦とは、殿様と領地の庄屋という身分関係になるわけですが、領主忠邦は、国学の師として方朗に接し、両者共通の師である賀茂真淵翁の顕彰にもかかわっています。
 真淵翁の生まれ育った伊場村の賀茂神社境内に縣居霊社造営を進めるにあたって、忠邦は方朗の願いに呼応し、銀十枚の下賜、及び石碑の碑文の書をしたためました。現在の縣居神社拝殿前にある石碑「縣居翁霊社」の文字は、浜松藩主であった水野忠邦の書を刻んだものです。裏面には、自分は真淵先生、その弟子の方朗先生とつながっている学統の末にある者、すなわち「末学」との文字が見られ、老中首座を目指す政治家としての上昇志向が強かった忠邦が、学問の世界では師を敬う謙虚な姿勢をもっていたことが伝わってきます。

◆浜松藩領主忠邦は、実はほとんど浜松城にはいなかった!
 方朗が忠邦に直接教えた場は、浜松ではなく京都でした。
 唐津藩から浜松藩に入った忠邦ですが、領地の浜松に滞在するのは、江戸から大阪城代、京都所司代として勤務する道中のみといった状況で、浜松滞在時にも宿場本陣に宿泊するなど、城へ入らないまま旅立つこともありました。従って方朗が直接、忠邦と接したのは、忠邦が京都所司代として勤務していた京都でした。忠邦に命ぜられ上京した方朗は、半年にわたって、古今和歌集を講じ、歌の添削をしたり、歌会を主催したりしています。忠邦は、方朗が京を離れ、浜松に戻る際、餞別の歌会を催しました。「冬日同詠寄道祝和歌」と題した和歌を忠邦も方朗も詠んでいます。下の左が忠邦の和歌、右が方朗の和歌です。領地の領民である方朗に対し、忠邦は学問の師として接し、ねぎらいの言葉や白銀、水野家家紋入りの裃などを与えています。
為政者として天保の改革という厳しい政策を断行した忠邦ですが、学問への姿勢はきわめて真摯であったことがわかります。