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縣居通信


【縣居通信8月】~2019年は真淵翁没後250年
真淵への追慕の思い深き遠江の江戸期の門人、高林方朗(たかばやしみちあきら)たち
歌づくしの祭儀“真淵翁五十年祭”を挙行する

 賀茂真淵翁が江戸から全国に広げた国学は、遠江では、翁に直接教えを受けた内山真龍(またつ)、栗田土満(ひじまろ)らに受け継がれ、さらに、石塚竜麿(たつまろ)、高林方朗、夏目甕麿(みかまろ)たち孫弟子によって発展していきます。文政元年(1818年)9月20日、浜松城下の梅谷本陣でとり行われた“縣居翁五十年霊祭”は、真淵を追慕する人々の深き思いによって挙行されました。中でも、浜松の有玉村大庄屋に生まれた高林方朗は、生まれた年が真淵翁没年という縁もあり、真淵を尊敬する思いが人一倍あつく、この霊祭の実施にあたり、遠江をはじめ、各地の国学者たちにも働きかけ、滞りなく霊祭を進めた人物でした。

◆高林家文書からわかる霊祭のようす

 方朗は、日記をはじめ、多くの書簡や金銭記録などを、詳細に書き残し、それらが高林家子孫に伝えられ、現在は浜松市中央図書館に「高林家文書」として整理され保管されています。その文書の霊祭式関連の資料が、遠江における真淵研究の第一人者であった小山正氏の著書「高林方朗の研究」(昭和32年出版)に翻字されています。そこから、霊祭への参会が54名にも上ったこと、伊勢松坂の本居宣長の長男春庭ら20か国、300人余の人々が弔祭歌を寄せたことなどが分かります。資料の中の「予定書きの紙片~行事予定~」の記述を下に紹介します。
 ここから、神主による神式の祭儀が行われていたこと、祭儀の後、直会(なおらい:仏教での精進落とし)が行われたことがわかります。そして、特徴的なのは、“歌会”が終日催されたことです。
 前述の小山正氏の著書には、次のように記載されています。 「祭儀は八ツ時(午前2時)から始まって七ツ時(午前4時)に終了。兼題(あらかじめ出されていた歌題)は、故郷月と寄道祝の二題で二十カ国から集まった無数の懐紙短冊は詠み上げられた。夜に入っては当座探題の歌会。読師の朗声につれて雅楽は奏せられて古雅な雰囲気である。」  まさに、古歌の研究に情熱を傾けた真淵翁を追慕するにふさわしい歌づくしの霊祭だったことがわかります。