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縣居通信


【縣居通信3月】『東海道人物志』に載った真淵の門人たち
【内山真龍(うちやままたつ)・高林方朗(たかばやしみちあきら)・栗田土満(くりたひじまろ)・石川依平(いしかわよりひら)・石塚龍麿(いしづかたつまろ)・夏目甕麿(なつめみかまろ)】
 江戸時代、賀茂真淵が亡くなって34年後の享和3年(1803)に『東海道人物志』が大須賀鬼卵(おおすがきらん・1744~1823)によって出版されました。大須賀鬼卵は、河内国(大阪府)に生まれ、若い頃は三河の吉田(豊橋市)で生活し、その後、府中(静岡市)や伊達方村(掛川市)、晩年は日坂(掛川市)で過ごした人です。絵画・連歌・俳諧などに優れ、多芸多才で「世の中の人と多葉粉(たばこ)のよしあしはけむりとなれて後にこそしれ」と歌った狂歌は、松平定信の目に留まり、多くの褒美を賜ったと伝えられています。
 『東海道人物志』は東海道を旅する人々への情報提供のために作られた本です。東海道五十三次の宿場とその周辺に居住する学者や文人、諸芸に秀でた人々を列記した実用書で、京都・大坂・江戸で出版されました。宿場を中心に多彩な人物が掲載されていて、当時の庶民文化の広がりを実感させられます。人物についてはその雅号とともに、得意とする学問・文芸・技芸が紹介されていて、例えば、見附(みつけの)駅の項では賀茂真淵の門弟の高林方朗の名があり、「国学・和歌・書、名方朗、有玉、高林伊兵衛」と書かれています。同じ見附駅の項で内山真龍も「国学・和歌、名真龍、大谷、内山彌兵衛」と記されています。
 各宿場からほぼ二里以内の人々を対象にしているのですが、不思議なことに天竜川より西にある現在浜松市の中ノ町や貴平、笠井、有玉、大瀬、松島などは浜松駅ではなく、見附駅になっています。また、対象は一般庶民で武士の名はなく、さらに、当時庶民にも普及していた武術(剣術や弓術など)などは除かれ、著名人であっても旅人の面会要求をこばむ人たちは都合により掲載できなかったとしています。
 江戸時代、城下町や宿場町をつなぐ交通の要所であった東海道は情報や文化の伝播も早く、当時の庶民文化の状況がこの『東海道人物志』によってとてもよくわかります。とくに静岡県下には二十二の宿があり、多彩な人物の多様な活躍ぶりがうかがわれます。
 静岡県の特色として俳人や歌人、国学者が比較的多く、俳諧81人、和歌40人、国学21人が掲載されています。真淵の門弟では高林方朗や内山真龍のほかに、日坂駅の栗田民部【栗田土満】と石川為蔵【石川依平】。浜松駅の石塚安右衛門【石塚龍麿】。白須賀駅の夏目嘉右衛門【夏目甕麿】の名前があげられています。なお、石川依平には「冷泉家御門人、五才ヨリ詠歌」と書かれています。
 ただこの時代、駿河・伊豆については国学者をほとんどみることはできません。三嶋(三島)駅に宣長門下の竹村平右衛門【竹村茂雄】の名があるだけです。江戸時代の国学は真淵門下の内山真龍とその門流の高林方朗や石塚龍麿、夏目甕麿を中心に西遠から中遠地方を、そして、栗田土麿やその門流の石川依平たちが中遠から駿河にかけて真淵の教えを受けた国学を広げていったことがよく分かります。