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縣居通信


【縣居通信2月】真淵五十歳 春の訪れ
 延享3年(1746)2月13日、真淵五十歳のとき、念願叶って「御出入扶持(ふち)五人」の待遇で田安宗武に仕えることができました。宗武から仰せつかる仕事も徐々に増えていき、生活も安定します。
 同年2月29日、江戸に大火があり、賀茂真淵の茅場町の家は類焼・炎上します。茅場町に家を建ててから三年半でした。またこの時、友人の青木昆陽や江戸に出てから世話になっていた町奉行所与力の加藤枝直の家も同様に焼けてしまいました。真淵はこの火事の体験を歌に詠んでいます。
春の野の焼野の雲雀(ひばり)床をなみ煙のよそに迷ひてぞ鳴く
【口語訳】春の野が一面に焼かれ、棲み家(わが家)を失ってしまった「焼野の雲雀」は立ち上る煙の圏外に迷い出で悲しげに鳴いているよ」。(奥村晃作氏訳)
 詞書には「二月晦日(つごもり)、本所といふところに火起こりて、家ども多く焼けにけり。その夕つ方、風も荒く、空の景色赤く塵立ちて、ここにしも火あるかと覚えたるを、その夜~ほどなく、おのが家も焼けぬ。昔より、心尽くして考えつつ物多く書き添えたる書(ふみ)どのあれば、これをば蔵にも入れじ、~いかでたよりよからんところへ渡してやりてむ。今はとて、逃れ出でなむ時、従者(ずさ)の手ごとに持たせむと構えて~。」とあるように、真淵は火事の様子を幅広く客観的な視野から詳細に記述しています。そして、書き入れをした書物やあるいは書きかけの稿を大事に思い、弟子たちを使って、安全な場所に運び出させています。火災にあっても真淵はまず、書物を心配していたのです。この経験からか、この後真淵は草稿類を浜松の知人や門弟にも送っています。
 また、この歌の後に「おのがあたりより火いよいよ盛りになりて、~いく千よろずの家々か煙となりけむ。~所々に火あるは、盗人のわざも多しとて、~。」と書いていて、火事の現象や原因に思いを巡らせて、放火ではないかと考えたり、そうした罪人の出る政治や社会のありかたにも疑問を抱いたりしています。真淵は社会の様子にも広く関心を持っていたことがここからも伺われます。
 十月には、加藤枝直や多くの弟子たちの援助により、家を再建しました。十一月五日親戚にあたる植田喜右衛門に宛てた手紙の中に「御聞及之通、類焼いたし候へども、旁之取持にて家作も最前より宜出来候間、~。」<『延享三年十一月五日付植田喜右衛門宛賀茂真淵書簡』から>とあり、前よりも立派な新居が同じ場所に建てられたことがわかります。真淵は大満足で、江戸にお越しの際は、ぜひお泊まり下さいと植田喜右衛門にこの手紙を書いています。さらに、「田安宗武公が書いた『歌体約言』に意見を申し上げたところ、跋文(ばつぶん)を書くようにいわれ、褒美として銀子五枚を拝領し、吉宗公に献上された」と喜びの声も書いています。
 大火にあって家を失った真淵ですが、なぜか明るく感じられます。というのは、この年の九月二十七日、真淵は荷田在満に代わって、正式に「和学御用」を拝命し、本格的に田安宗武に仕えるようになったのです。江戸に出てから十年、真淵は五十歳にして初めて定職を持つことができました。真淵にもいよいよ本格的な春がやって来たのです。