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縣居通信


【縣居通信4月】真淵の孫弟子「夏目甕麿(みかまろ)」の出版事業
~私財を投じて国学の普及に当たる~

 「天皇はあめのしたをしらし(=治めなさり)臣は詔を奉りて國を治む、東のくに人、都に登りて、あたまもる(=外敵から守る)筑紫にいたるを防人といふ、昔時遠淡海のさきもりが詠(ながめ)る哥(=詠んだ歌)を、賀茂の真淵翁が千代の昔を忍びて解置れし(=解釈しておかれた)ふみを、八十年經て、白菅(=白須賀)の夏目甕麻呂木に彫て(=出版して)後の世に傳へむとす」
 文政2年(1819)秋、内山真龍は『万葉集遠江歌考』の序に、このように記しています。賀茂真淵は田安宗武の求めに応じて『万葉集遠江歌考』を書き上げ、寛保2年(1742)の冬に奉献しました。真淵46歳の時でした。その著述が、それから「八十年經て」夏目甕麿(なつめみかまろ)の手によって出版されたのです。
 甕麿は幼名を小八郎といい、通称を嘉右衛門、甕麿と号しました。常に萩の花を愛し、諸国の名萩を自宅の庭に植えたので、家の名も「萩園」と称しました。夏目家は東海道白須賀宿で、父の小八郎が酒造を営んだので、屋号を「酒小」とよび、繁昌しました。また小八郎は庄屋をも勤めていました。甕麿は幼時から同地の笠子学園(※)に学び、文武両道を修めました(後に推挙されてその教授にもなったと伝えられています)。学問を好み、国学者内山真龍に入門しましたが、さらに寛政十年十月、本居宣長の門人となり、勉学によく勤めて、その逸材と称されるに至りました。甕麿もまた酒造を家業とし、種々の事業を計画しましたがいずれも成功に至らず、膨大な負債を背負い、破産してしまいます。文政4年2月、甕麿は故郷を去り、摂津国昆陽(こや)の里に赴きましたが、翌文政5年5月5日、昆陽寺に近い池で、あえない最後を遂げました。享年50歳。夏目甕麿の著書には、『皇陵写生図』・『古野の若菜』・『駿河国号考』・『歌集ふじの烟』・『萩園翁旅の日記』等があります。
 甕麿生涯のうち、特筆すべきは、国学書の出版事業です。賀茂真淵の『万葉集遠江歌考』、石塚龍麿の『鈴屋大人都日記』、服部菅雄(すがお)の『篠家文集』等数多くの国学書を出版しました。当時の印刷技術では、これらの事業を行うことは大変な難事でした。甕麿は、出版の資金の獲得のために、青梅の塩漬けを篤志家に対して売ったようです。
 文政元年と推定される高林方朗(みちあきら)宛の甕麿書簡の一節に「とかく青梅の売レ次第ニテ御座候、何ゆえなれば、財なければ也けり」とあり、甕麿の苦心の様子がよく分かります。また、石塚龍麿の高林方朗宛の書簡には「近々みか丸(甕麿)東筋へも出掛候而、青梅御かひ可被下候様御頼可申候儀ニ御座候、何卒思召を以五ヶ年 御かひ可被下候、右は上木料の積ニ候」とあり、龍麿や方朗が甕麿の出版事業を援助していたことがうかがわれます。
 夏目甕麿が私財をなげうってまでも出版事業に力を入れた理由を、『鈴屋大人都日記』の巻末にある甕麿の跋文(あとがき)「都日記を彫れる所由」から知ることができます。この中で、甕麿は、全国にたくさんの本が出回っているのに、古学(国学)がはじまった遠江に事物や言語に関する書籍がなく、古のことや今のことを知る上で頼みとするものがないと訴え、その初めともしるべともするために出版を行うのだと主張しています。
 また、甕麿は『万葉集遠江歌考』の跋文「遠江歌考を彫れる所由」で、「さて世には、(真淵翁を)ひたぶるに(=むやみに)郷(さと)をも家をもうかれ出給へる人のごと聞ひがめたる(=かたよった見方をする)ともがらも有とぞきく、そは翁の為のみならず、道の為にもいとうれはしきおよづれ(=大変悲しく、人をまどわす言葉)なりかし」と言って真淵の愛郷心に信頼を寄せています。
 郷土を愛し、出版事業によって国学の振興を図り、学問のために生涯をささげた夏目甕麿の業績は、現在湖西市の夏目甕麿顕彰会で顕彰されています。(毎年5月5日顕彰祭)そして、甕麿が私財をなげうって彫った版木は、今も顕彰会で大切に保管されています。
※笠子学園・・・吉田藩が白須賀宿につくった教育機関。武士や町人の師弟が学問と武道を学んだ。