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賀茂真淵について

遠江国学の流れ

賀茂真淵の師

 賀茂真淵(かものまぶち)【1697~1769】は、近世中期の国学者・歌人です。
 真淵在郷(浜松)時代の師杉浦国頭(くにあきら)【1678~1740】は、浜松諏訪(すわ)神社の神官で、荷田春満(かだのあずままろ)【1669~1736】の門人です。『和州紀行』『国頭千首』等の著述があり、遠江国学の祖です。妻の真崎(まさき)【1690~1754】は、春満の姪(めい)で、夫を助け、歌集『やどの梅』等を残しました。真淵は11歳の時から真崎から手習いを教わりました。
 真淵は、国頭から詠歌・古典を学び、杉浦家和歌会に参加し歌才を磨きました(『和歌会留書』)。

 森暉昌(てるまさ)【1685~1752】は、五社神社の神官で、春満に入門し、国頭とともに若き真淵の師です。杉浦家歌会などにも参加し、遠江国学の隆盛にカを尽くしました。享保の歌人柳瀬方塾(やなせまさいえ)【1685~1740】も真淵を育てたひとりです。方塾は“籠□翁(こもりくおう)”と称えられ歌論『秋夜随筆』を著わしました。
 真淵は31歳のころ上京し、荷田春満に入門しました。春満は京伏見稲荷(ふしみいなり)大社の神官の子として生まれ、幼い時から和歌を詠み、徳川幕府から和学の下問(かもん)を得、国学者として名を挙げた人です。
内山真龍刻賀茂真淵像版(内山氏蔵)
内山真龍刻"賀茂真淵像版木"(内山氏蔵)

賀茂真淵 -人と業績-

 賀茂真淵は、元禄10年【1697】3月4日、遠江国敷智(ふち)郡浜松庄伊場村(今の浜松市東伊場)に賀茂神社の神官岡部政信(おかべまさのぶ)の三男として生まれました。
 真淵は、多感な青年期までを遠江で過ごし、杉捕国頭・森暉昌らに学び、国学への目を開きました。31歳のころから伏見の荷田春満のもとに遊学、春満没後は、江戸に出て、八代将軍徳川吉宗の次男田安宗武(たやすむねたけ)に仕えました。
 真淵の業績の第一は、『万葉集』を研究し"国学"を樹立したことです。真淵の著述には『冠辞考(かんじこう)』『万葉考』『歌意考』『国意考』『祝詞考(のりとこう)』等があります。
 第二は、歌人として優れ、万葉風の和歌を復興し、1000首ほどの和歌を詠みました。
 第三は、教育者として秀(ひい)で、340名余りにのぼる門人を育てました。最も優れていたのは、伊勢松坂の本居宜長(もとおりのりなが)【1730~1801】でしたが、郷国遠江では内山真龍と票田土満(くりたひじまろ)【1737~1811】が、特に優れていて、真淵の詠歌・学問が伝えられました。
賀茂真淵書簡真龍あて
賀茂真淵書簡真龍あて

内山真龍 -人と業績-

 内山真龍(うちやままたつ)【1740~1821】は、近世後期の国学者です。真龍は、遠江国大谷(おおや)村(今の浜松市大谷)に生まれ、家を継いで庄屋となり、農耕に従事し、村政に尽力しながら、俳諧(はいかい)・詠歌・国学・絵画に精進し、多彩なカを多方面に発揮しました。
 真龍は、丈夫な体、強い意志に恵まれ、実地踏査を主とし、実証的実利的なところに、その学問の特色があり、『出雲風土記解(いずもふどきかい)』『遠江国風土記伝』『日本紀類聚解(にほんぎるいじゅかい)』等の著述を残しました。特に73歳の時成った『日本紀類聚解』は名高く、光格天皇の天覧を得、“長浜の浦の芦田鶴(あしたず)ち代ふとも雲ゐ迄とはおもはざりしを”(自画賛像)と感激しています。
 真龍の業績の第一は、生活にも役立つ学問を形成し、庶民文化向上に資したことにあります。
 第二は、石塚龍麿(たつまろ)・夏目甕麿(みかまろ)・高林方朗(みちあきら)等多くの優秀な弟子を養成し、遠江国学を充実発展させたことにあります。しかも、真龍の器量の大きさは、自分の弟子で特に優れているものを、遠く伊勢に送り、相弟子本居宣長に入門させたことに見られます。
内山真龍辞世の和歌(内山氏蔵)
内山真龍辞世の和歌(内山氏蔵)

石塚龍麿 -人と業績-

 石塚龍麿(いしづかたつまろ)【1764~1823】は、近世後期の国学者・国語学者です。
 遠江国敷智(ふち)郡細田村(今の浜松市協和町)に、石塚司馬右衛門の次男として生まれ、初め短慶(のりよし)、通称安右衛門、家号を槇屋(まきのや)、歌会では大倭(おおやまと)とも言いました。兄は領主大沢家に仕え、代官役でした。
 23歳の時内山真龍に入門して、詠歌・国学を学び、真龍の勧めに従って、26歳の時本居宣長に入門しました。宣長が亡くなると、実子春庭(はるにわ)に入門しました。
 龍麿は、龍門の七子(しちし)の最右翼として称えられ、宣長からも大いに期待され、宣長最後の上京に大平(おおひら)に替わって秘書役として近侍し、『鈴屋大人都日記』を残すほどでした。
 詠歌に優れ、長歌「国賛歌(くにほがいうた)」は『八十浦の玉(やそうらのたま)』にとられ、雅文もよくし、『花の白雲』「鈴木有鷹(ありたか)が桜の詞」等があります。
 龍麿の業績の一番大きなものは、国語研究です。31歳の時の自序を持つ『古言清濁考(こげんせいだくこう)』は、『玉勝間(たまかつま)』四で宣長に激賞され、35歳の時の大平の序を持つ『仮字遣奥山路(かなづかいおくのやまじ)』は、上代特殊仮名遣研究の先駆(せんく)として国語学者橋本進吉博士に見出され有名です。
石塚龍麿長歌
石塚龍麿長歌