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縣居通信


【縣居通信12月】
真淵が生きた江戸時代中期 その8
 延享3年(1746)2月29日真淵50歳のとき、江戸に大火があり、茅場町の真淵の家もすっかり焼けてしまいました。真淵が心配したのは、自分が苦心して書き留めた書物の草稿などのことです。すぐに弟子たちの世話で前より立派な家ができました。(この年の9月27日に真淵は田安家の和学御用となる。)

真淵も江戸の火事に巻き込まれた!  「火事と喧嘩は江戸の華」などと江戸っ子は強がっていましたが、江戸は何度も壊滅的な大火に遭っています。代表的な大火は、明暦3年(1657)「明暦の大火」です。真淵が生まれる40年前の出来事です。この大火では、江戸城本丸も焼け落ちました。その後も大江戸八百八町はよく燃えました。
 これは民家の密集や木造建築(木と紙の家)が主な理由かと思われますが、これだけではなかったようです。火事で燃えればまた作ればいいという江戸人の自然災害に対する価値観があったように思います。つまり、人間はあくまでも自然の一部であり、人知の及ばない神々の差配する自然の中で日々の営みをしていると江戸人は考えていたのではないでしょうか。

少し前の新聞記事に「江戸の暮らしはSDGs最先端」という記事がありました。紙くず一つおろそかにしないというリサイクルシステムを江戸時代に実行していたという興味深い記事でした。中でも、糞尿を回収して肥料として活用していた循環システムには驚かされました。中世ヨーロッパでは、糞尿や汚物は川や路上の溝に捨てられたため、悪臭が立ちこめていたそうです。これに対して、自然界の全てが神であると考えた江戸人にとって、山や川、海などは神のおわす場所だったと考えたのではないでしょうか。汚物を捨てるということは、神々の神域を汚すことになるのです。
 明和元年(1764)7月5日真淵68歳のとき、居を江戸日本橋・浜町に移し、新居は「県居」と呼ばれました。真淵邸を訪れた内山真龍は、間取り図を残しています。そこには、火事から書物を守るための土盛りの「穴蔵」が描かれています。(左図の上部が「穴蔵」)

 ところで、作家で歴史評論家の原田伊織さんは、著書『日本人が知らされてこなかった「江戸」』(SB新書)でとても興味深い江戸観を述べています。
 「私たちの文化は江戸期に一つの完成形に達しているのです。つまり、今私たちが伝統文化と呼んでいるものは、殆ど江戸期にでき上がったものなのです。・・・江戸という300年近くに及ぶ時代は、高度な社会システムと文化、独自性のある精神文化をもった世界史の上でも他に例をみないオリジナリティに満ちた時代でした。」
 真淵の生きた時代には、見習うべきものが多くありそうです。