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縣居通信


【縣居通信10月】
賀茂真淵と関わりのあった高貴な女性たち
 賀茂真淵は、諸大名の奥方たちとの華やかな交流がありました。もちろん、それは真淵個人の力にもよりますが、田安宗武(たやすむねたけ)の好学と権勢と財力も背景にありました。その上、真淵は流麗(りゅうれい)な書法を用い、古雅(こが)な絵画による詠歌(えいか)を奨励し、調度や服飾はさながら王朝の典雅な世界の再現に努めたのです。それが多くの高貴な女性たちの心を惹きつけました。

桜田大膳大夫(だいぜんのだいぶ)

 長州藩主毛利重就(もうりしげなり)の妻で、奥女中の吉岡弁子(ともいこ)に真淵の古今集の講義を聴講させ、その講義録をもとに『古今和歌集打聴(こきんわかしゅううちぎき)』を刊行しました。さらに、弁子らに宛てた真淵書簡を中心にまとめた『ふぶくろ』も刊行しました。

鵜殿余野子(うどのよのこ)

 紀州徳川家の侍女で、『真淵自筆門人簿』には〝瀬川きよい子〟とあり、県門の三才女の一人です。紀州徳川家七代藩主徳川宗将(むねのぶ)とその正室徳子に仕え、その御殿での呼び名が〝瀬川〟でした。真淵は女性の門人をとてもかわいがりそれぞれに雅名をつけました。〝きよい子〟がそれで、〝瀬川〟の縁語です。田安家の要請で、真淵に代わって余野子が筆を執った『月次消息(つきなみしょうそく)』が大いに好評を博し、加藤千蔭(かとうちかげ)の模刻(もこく)などにより版を重ね、樋口一葉(ひぐちいちよう)をはじめ明治の女流文学にまで影響を及ぼしました。

吉田みほ子

 余野子の同僚のみほ子は紀州徳川家徳川宗将(むねのぶ)の側室となり、重倫(しげのり)の母となってからは八重の方と呼ばれ、重倫が八代藩主となってからは清信院(せいしんいん)と呼ばれました。重倫の子が十代藩主治宝(はるとみ)で、本居宣長を召した人です。宣長が和歌山を訪れた時、清信院は宣長と真淵の思い出話を語り合ったそうです。家庭的に寂しかった真淵に色どりをそえ、真淵の学芸をささえたのが、これら紀伊家の侍女たちでした。

ふじ子
 〝ふじ子〟は『真淵自筆門人簿』に、〝真田伊豆守御妹 ふじ子〟と出ている人のことで、信州松代藩主真田幸豊(ゆきとよ)(のち幸弘(ゆきひろ))の妹君です。当時大名家の姫君などは、歌会に出る前に自詠を師匠に見てもらい、批評、添削を求めたのでした。

田安宗武長女 誠(のぶ)姫

 真淵は、宗武の夫人近衛家久(このえいえひさ)女森姫の頼みで、長女である誠(のぶ)姫に古今集仮名序の「なにはつ」の歌によって手習いを授けました。伊達陸奥守重村に入輿(じゅよ)の予定となって以来、追々歌の指導にもあたりました。残念ながら、誠姫は入輿を迎えられず若い命を閉じてしまいます。

参考:『国文学 解釈と鑑賞 特集 近世の歌人たち』(鈴木 淳 至文社)