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縣居通信


【縣居通信9月】
遠江出身の国学者 石塚龍麿の研究はどのようにして世の中に知られるようになったか。(その1)
 石塚龍麿(1764年~1823年)は近世後期の国学者・国語学者です。遠江国敷智郡細田村(今の浜松市中央区協和町)に、石塚司馬右衛門の次男として生まれました。兄は領主大沢家に仕えた代官役でした。
 23歳の時に内山真龍(うちやままたつ)に入門、26歳の時に本居宣長に、宣長没後は宣長の実子、本居春庭に入門しました。真龍からは、その旧名を与えられるほどで、竜門の七子の最右翼として称えられました。宣長からも大いに期待され、宣長の最後の上京時に、宣長の養子の本居大平に替わって秘書役として近侍し、『都日記』を残すほどでした。ちなみに夏目甕麿(なつめみかまろ)は家財を傾けて龍麿の『鈴屋大人都日記(すずのやうしみやこにっき)』を出版しています。
 詠歌に優れ、長歌「国賀歌(くにはがいうた)」は『八十浦の玉(やそうらたま)』にとられています。雅文もよく、『花の白雲』などの紀行文、「鈴木有鷹(すずきありたか)が桜の詞」があります。また、古典研究『校証古今六帖』、歌論『歌がたり斥非(せきひ)』など多くの著述を残しました。

 しかし、業績で一番大きなものはやはり国語研究にあります。宣長の学説に立って記紀万葉(「古事記」「日本書紀」「万葉集」)の真仮名を精査して『古言清濁考(こげんせいだくこう)』を著し、29歳の時に宣長に序文をいただき(版本序文は31歳)、『玉勝間』四で激賞されました。さらに32歳の頃、『紀伝』一の巻「仮名の事(かなこと)」の考えを発展させ訓仮名も取り上げ、35歳の時の大平の序を持つ『仮名遣奥山路(かなづかいおくのやまじ)』では、キ・ケ・コなどに2種の使い分けがあることを明らかにしました。この研究はあまりにも画期的過ぎて当時理解されず、夏目甕麿の弟子の八木美穂(やぎよしほ)の『かなぶくろ』、その弟子の草鹿砥宣隆(くさかどのぶたか)の『古言別音抄(こげんべつおんしょう)』に伝わっただけでしたが、後に東京帝国大学の橋本進吉博士によって再発見されました。
 門人には、『栄樹園家集(さかきぞのかしゅう)』の小栗広伴(おぐりひろとも)、『万葉一句類語抄』の藤田武鞆(ふじたたけとも)(のちに栗田高伴)、『詠藻(えいそう)』の波多完(はたまたき)らがいます。

※R7平常展では、石塚龍麿の『古言清濁考』が展示されています。ぜひ御鑑賞ください。