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縣居通信


【縣居通信11月】
真淵が生きた江戸時代中期 その7
 江戸時代の大名にとって大きな負担になったのは、江戸屋敷の維持と参勤交代でした。藩主の正妻と嫡子を江戸に住まわせて、藩主は隔年で江戸に住まなければなりませんでした。この江戸屋敷の維持費と、国と江戸を往復する「大名行列」の旅費・宿泊費は多額なものになりました。
 江戸時代初期の江戸の人口は15万人ぐらいでしたが、こうした幕府の政策もあり、急激に人口が増加して享保期には100万人ぐらいになったといわれています。17~18世紀のパリやロンドンが100万都市ではなかったことから、当時の江戸は世界最大級の都市でありました。
 真淵が生きた江戸はまさにこの時代でした。

 また、大名の参勤交代と流通の発達に伴って全国に街道が整えられたのもこの時期でした。街道が整備されると、関所の通過に必要な通行手形を持った庶民が旅行をする機会が増えました。伊勢神宮や讃岐の金刀比羅宮(ことひらぐう)、安芸の厳島神社(いつくしまじんじゃ)、信濃の善光寺などの寺社への参詣、大坂や京への観光などで人々は街道を使いました。
 驚くのは、江戸時代の治安のよさです。京から江戸まで女性でも一人旅ができたと言われています。

真淵が出かけた旅には、どのようなものがあったか?  真淵は41歳のとき、江戸で活動している荷田一門を頼って江戸に出ました。田安宗武に見い出されて和学御用になる前のことです。まだ浪人の身で学問修行の期間でした。(和学御用になったのは50歳のとき)
 元文5年(1740)7月、真淵44歳のとき、浜松に帰省しておよそ2か月滞在した後、江戸にもどるまでの旅日記『岡部日記』を残しています。この日記には、多くの古典や古歌をふまえた引用があります。最も多く引用しているのが『万葉集』であり、ほかには『古今集』『伊勢物語』などもありました。(『岡部日記 訳注』は当館にて¥700で販売しています。)
 真淵の紀行としては、元文元年(1736)の『旅のなぐさ』、延享2年(1745)の『後の岡部日記』などもあります。

 さらに、宝暦13年(1763)2月、真淵は江戸を立って大和への旅に出発しました。同年、5月25日、この旅の最中、真淵は松坂の新上屋という旅宿で本居宣長と対面します。
 真淵67歳、宣長34歳のときでした。真淵は松坂に数日滞在していました。探訪と古書の探索のためだと言われています。この一期一会の出会いが「松坂の一夜」になるのです。
 しかし、この旅には紀行が残されていません。書いたものが散逸したのか、はじめから書かなかったのか不明ですが、「家集」などから推測されるばかりです。

【『賀茂真淵 岡部日記 訳注』後藤悦良 著 】