【縣居通信10月】
真淵が生きた江戸時代中期 その6
宝暦(ほうれき)は江戸時代中期の元号で1751年~1764年の期間がありました。50代半ば~60代後半の真淵が最も活躍した時期です。宝暦13年(1763)は真淵67歳の年でした。
宝暦13年(1763)といえば・・・。
この宝暦13年5月25日に34歳の本居宣長は、伊勢参宮に際して松坂の宿・新上屋に宿泊していた真淵と生涯一度限りの対面をしています。これがあの有名な「松坂の一夜」で宣長の日記には、次のように記されています。
「廿五日 曇天 嶺松院会也 岡部衛士当所一宿 始メテ対面ス」(本居宣長全集 第16巻)
このことが大正時代になって、佐佐木信綱が「松坂の一夜」と題する一文を記し、それが平易な文章に書き直されて「尋常小学国語読本」に収録されたことにより、広く知られるようになったのです。「松坂の一夜」はあくまでも逸話であり、その夜の史実をそのまま伝えるものではありません。
宝暦13年12月16日付の宣長宛真淵書簡(本居宣長全集 別巻1)などからすると、この夜二人の間で話されたことは次のことになります。
・宣長が真淵に入門したい旨を伝え内諾されたこと
・『古事記』を研究するためにはまず『万葉集』を学ぶことが大切であり、質疑に答えることを真淵が約束したこと
・万葉研究のために「万葉風」の和歌をつくることが大切であり、その添削を真淵が引き受けたこと
その後、宣長はなかなか万葉調の和歌を詠むことができず叱責されることもありましたが、宣長自身の歩むべく方向を示し、背中を押してくれた真淵がかけがいのない師となりました。
宝暦13年5月5日生まれに俳人の小林一茶がいました。一茶は北信濃の北国街道の宿場町柏原(長野県信濃町柏原)に自作農の子として生まれました。50歳を過ぎて若い妻を迎え、次々に子をもうけましたが相次いで夭折し、妻も30代の若さでなくなるなど、家庭的な幸せに恵まれませんでした。「名月を取ってくれろとなく子かな」「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」などの有名な俳句のある俳諧俳文集『おらが春』は、妻きくとの間に生まれた長女さとの誕生と死というドラマを見つめる中から生まれた代表作です。
真淵の直筆の門人簿に記載のある、享保13年(1728)生まれの平賀源内も宝暦13年ごろ最も活躍した一人です。讃岐国(香川県)志度浦生まれの本草学者・博物学者・戯作者・浄瑠璃作者ですが、これ以外でも活躍した多才な人でありました。宝暦2年の長崎留学の後、宝暦4年に家督を妹婿に譲りました。宝暦6年には、大坂を経て江戸に出府し、本草学者田村元雄の門に入り、傍ら林家に儒学を、国学を真淵に学びました。真淵直筆の門人簿では、本居宣長の右隣にしっかりと平賀源内の名前が記されています。長崎で入手したエレキテル(静電気発生機)の修理・復元に成功したのは特に有名です。
(鈴木健一 編『輪切りの江戸文化史』参照)
※令和6年度特別展では、真淵直筆の「門人簿」が展示されます。ぜひ、ご覧ください。