【縣居通信9月】
真淵が生きた江戸時代中期 その5
真淵が徳川御三卿の一人である田安宗武に和学御用として仕えたのは延享3年(1746)2月であり、真淵50歳になる年でした。この時、長谷川平蔵宣以(はせがわ・へいぞうのぶため)は1歳でした。
長谷川平蔵宣以(はせがわ・へいぞうのぶため)とはだれ?
ところで、長谷川平蔵宣以とはだれでしょうか?長谷川平蔵宣以は江戸時代中期、旗本の長谷川宣雄の長男として生まれました。火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためがた)の長官を務め、時代劇の『鬼平犯科帳』の「鬼平」こと、長谷川平蔵として馴染みのある人物です。長谷川平蔵という人物を広く知らしめたのは、池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』です。
天明7年(1787)、平蔵は42歳のときに、火付盗賊改方の長官に抜擢されました。真淵が亡くなってから、18年後のことです。真淵が73歳で亡くなったとき、平蔵はまだまだ若い24歳でした。つまり、真淵と平蔵は、江戸で同じ時代を生きていたのです。
平蔵を火付盗賊改方の長官に任命したのは松平定信でしたが、それまでに至る番方最高位の「御先手組弓頭」まで引き立てたのが、前の老中であった田沼意次でした。寛政の改革を進めた老中・松平定信は、平蔵を田沼意次の補佐役の一人とみて、本来2~3年で交代すべき激務の火付盗賊改方の長官に8年間も留め置き、平蔵が望んでいた次のポジションである京都所司代・大坂城代・堺奉行などに栄転させませんでした。松平定信は、田沼意次のことを快く思っていなかったのです。
しかし、平蔵の犯罪捜査の活躍はめざしく、その実績には無視できないものがありました。寛政の改革の一つに「江戸石川島の人足寄場の設置」があります。これは、平蔵が松平定信に提案して実現した政策です。
天明の大飢饉で農村を捨てた多くの農民が江戸に流入したものの、ほとんどが定職に就けず、食料も不足して治安悪化が常態化していました。そうした者の犯罪を防止するために、手作業の職業訓練で技術を身に付けさせたり、精神講話を実施したり、手当てとして報酬も支払われたりするなど、手厚い支援で無宿人の更正を促しました。
平蔵は自分の若いころの放蕩生活時代の前科者等との付き合いの中で、ただの懲罰では効果がないと考えていたのです。
なお、松平定信の父親は、真淵が和学御用として仕えた田安宗武であり、真淵の高弟である橘千蔭は田沼意次の側用人でした。真淵が生きた江戸時代中期には、真淵に関わる様々な人間模様がありました。