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縣居通信


【縣居通信8月】
真淵が生きた江戸時代中期 その4
 真淵は元禄10年(1697)3月4日に遠江国敷地郡岡部郷(現在の浜松市)に岡部政信の三男として生まれました。享保18年(1733)、京都の荷田春満に師事して上京したのが37歳のときです。その後、江戸に出たのが元文2年(1737)、41歳のときでした。
 そして、延享3年(1746)、真淵が50歳のときに田安宗武に仕えて和学御用となり、本格的に江戸で活躍するようになったのです。
 真淵は晩年隠居を認められます。宝暦13年(1763)2月、宗武の命により大和への旅に出発します。5月、この旅の途中、松坂でまだ若い34歳の本居宣長が真淵の宿を訪ねてきます。二人の出会い(松坂の一夜)はこの一回だけで、このあとは手紙のやり取りで宣長が真淵から指導を受けました。その後、真淵は多くの門人を育て、明和6年(1769)10月に73歳で逝去します。

真淵が生きた江戸時代中期とはどんな時代だったのか?  真淵が生きた時代は関ヶ原の戦いから既に100年がたち、武力で物事を解決する時代が去り、法と文書で解決する時代になっていました。
 徳川吉宗が8代将軍になったのは真淵が20歳ぐらいのときです。(享保元年(1716))真淵が和学御用として仕えた田安宗武は吉宗の二男でした。
 10代将軍家治時代に権力をにぎったのが老中・田沼意次でした。真淵が亡くなって3年後のことでした。真淵の門人で四天王の一人と言われた橘千蔭は、意次の側用人です。
 意次の後の老中が松平定信でした。真淵が和学御用として仕えた田安宗武の七男が定信です。定信は寛政の改革を実施し、その政策の一つとして江戸石川島に人足寄場を設けましたが、この建議をしたのが火付盗賊改方長官の長谷川平蔵でした。真淵が73歳で亡くなったとき、平蔵はまだまだ若い24歳ぐらいでした。
 つまり、真淵と意次、千蔭、定信、平蔵は江戸で同じ時代を生きていたのです。

 江戸時代中期は平和が続いて世の中が安定するにともなって、江戸や大坂などは政治や経済の中心地として大いに賑わいました。江戸は人口が100万人にもなり、商業が発達し、武士以外の人々の中にも、学問や文化に親しむ人が出てきました。このころ、日本古来の考え方を研究する新しい学問である国学が広がりました。また、洋書の輸入ができるようになり、西洋の学問である蘭学を学ぶ人も増えてきました。
 真淵が生きた江戸時代中期は、様々な学問が花開くとともに、真淵ら国学者の古典研究が実を結ぶよき時代でもあったのです。