【縣居通信5月】
真淵が生きた江戸時代中期 その1
真淵が誕生したのは、元禄10年(1697)3月4日でした。綱吉が5代将軍となって12年が経過したころでした。この時代は元禄時代といわれ、「文治政治」の風潮が最もさかんになったころです。5代将軍綱吉は学問を好み、その興隆に力を尽くしたといわれています。
江戸時代中期の教育水準は高かった!
真淵が生きた時代は、関ヶ原の戦いから既に100年がたち、武力で物事を解決する時代は去り、法と文書で解決する時代になっていたのです。これにともなって文書を管理する役人(官僚)が必要となり、法の理解が人々に求められるようになりました。その基礎となるのが、読み書きであり、この教育こそが江戸時代を作り上げたといっても過言ではありません。
さて、江戸時代の文化の一つに「寺子屋」があります。寺子屋は僧侶や浪人が寺や自宅で子供たちを教育する「庶民のための学びの場」でした。寺子屋という名称は上方のもので、江戸では「筆学所」「幼童筆学所」などと言われていました。
月謝は特になく、寺子屋に入るときにわずかばかりの束(そく)脩(しゅう)(入学料)のようなものを払いました。あとは盆と正月の差し入れぐらいで、ボランティアに近いものだったようです。
その歴史は古く、桃山時代には既に都市部に寺子屋があり、当時来日したキリスト教の宣教師が「日本人は子供まで字が読める」と驚いたそうです。これらの寺子屋が江戸時代中期から農村・山村・漁村にも広がっていったのです。その数は、幕末には全国で1万5千以上になっていたと言われています。
寺子屋で教えたことは「読み・書き・そろばん」でしたが、ほかにも『国尽』(くにづくし)『町村尽』(まちむらづくし)などの地理書、『国史略』『十八史略(中国の史書)』などの歴史書、『百人一首』『徒然草』などの古典など、教える先生によって多岐にわたる書物が教材にされました。
さらに教育に力を入れたのは8代将軍吉宗でありました。武士はもちろんですが、この時代、町民や農民たちの多くはレベルの差こそあれ、文字の読み書きや計算ができたのです。
もちろん庶民の能力は武士に劣り、レベルの差も大きかったので、庶民を対象にした「触(ふれ)」は平仮名が多くあり、できるだけ多くの庶民が直接読むことを前提に法度を出していました。社会を安定させるために、幕府は言葉でのコミュニケーションを大切にしたのです。
子供を寺子屋や私塾に積極的に通わせ、お金がない家は野菜を持たせて手習いに行かせることもありました。貧しくても積極的に学べる環境が江戸時代中期にはありました。
真淵が生きた江戸時代中期には、新しい学問である「国学」が発展する素地が十分用意されていたのです。