【縣居通信3月】
江戸時代の名家、独礼(どくれい)庄屋とは?
江戸時代、浜松藩の領内には村の数だけ庄屋がいました。庄屋の中には、独礼庄屋(どくれいしょうや)と呼ばれる庄屋がありました。独礼庄屋とは藩主に対して単独で拝謁(はいえつ)することが許されていた格式の高い庄屋のことです。その独礼にも序列がつけられていて、古独礼(こどくれい)と新独礼(しんどくれい)がありました。
古独礼というのは、徳川家康が浜松城に入城した当時からなんらかの形で城とかかわりのあった家柄の庄屋です。新独礼は、江戸時代に入ってから家運が高まり、独礼の待遇を受けるようになった庄屋です。
江戸時代に古独礼を務めた高林家に浜松藩の古独礼と新独礼の名前を記録した「浜松御城古独礼新独礼席順牒」が残されています。それによると、古独礼の中でも四家が独礼惣代(そうだい)としてもっとも上位にすえられていたということです。その四家とは「伊場村岡部家」「笠井村山下家」「万魁村鈴木家」「有玉村高林家」です。このうち「伊場村岡部家」の一門から偉大な国学者賀茂真淵が誕生しました。また、「有玉村高林家」からは、本居宣長の門人国学者として、真淵翁の五十年霊祭を同門たちと斎行するとともに、老中水野忠邦(浜松藩主)の支援を受け、縣居翁霊社(後の縣居神社)の建立にも尽力した八代目当主高林方朗(たかばやしみちあきら)がいます。
ちなみに、鎌倉時代、1274年(文永11年)に後深草院に仕えた筑前の局(師重の女)が宮仕えの功で遠江国岡部郷に五百石の領地を頂き、そこに先祖の賀茂大神をお祀りする賀茂神社を創建しました。その後、局の子孫が岡部郷(現東伊場一帯)に移住し、郷の名にちなみ岡部姓を名乗ったのが岡部家の始まりである賀茂神社です。