【縣居通信2月】
浜松城主時代の水野忠邦の師・高林方朗(たかばやしみちあきら)とは?
高林方朗(たかばやしみちあきら)は、現在でも続く旧家高林家の8代目当主であり、江戸時代後期の国学者でもありました。第22代浜松城主・水野忠邦の国学の師としても有名です。1769年(明和6)に長上郡有玉村の独礼庄屋高林家に生まれました。
1779年(安永8)、11歳の時に内山真龍(うちやままたつ)に入門し、和漢の教えを受け、1788年(天明8)、21歳の時には伊勢国松坂(三重県松阪市)の本居宣長(もとおりのりなが)の門人となりました。
1827年(文政10)、前年に京都所司代に任命されていた浜松藩主水野忠邦は、和歌を重んじる遠江国学を講じさせるため、高林方朗を京都に呼び寄せます。そして、老中就任への大望を持つ忠邦は、職務上、天皇・公卿と接する京都所司代において、方朗に歌会を主宰させ、同時に茶会・宴席にも同席させています。『二条日記』はこのときの浜松と京の往来や京都滞在中のことを記したものです。
高林家は代々、浜松藩の大庄屋を務めました。今でも、長屋門が建っています。私有地なので邸内への立ち入りはできませんが、往時をしのぶ屋敷構えです。高林家北側の旧秋葉街道沿いには、「町屋」、「堀ノ内」という地名が残り、有玉郷の中心地でありました。
高林家の西隣にあるのが有玉神社です。高林家は八幡宮の神官を務めていました。1907年(明治40)、郷社神明宮を村社八幡宮の境内に移し、俊光将軍社など11社を合祀して郷社有玉神社としました。現在は有玉神社の社殿と俊光将軍社殿が並んでいます。有玉神社には、流鏑馬が例祭の神事として伝わっています。