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縣居通信


【縣居通信11月】
遠江の国学者 反骨の国学者 鱸有飛(すずきありとび)
 鱸有飛は、宝暦6年(1756)敷智郡新居(現湖西市新居)に生まれました。家業は尾張屋という旅館でした。幼名万七、のち半之丞、通称房重、字は士竜、俳号は安斎、冠宙といいました。
 鱸有飛の名号は、名字が「鱸」で魚で海の中のものなので、名はそれに対して陸のものにし、しかもアリ(蟻)は小さくて地を這うもの、トビ(鳶)は大きくて空を飛ぶもの、その対照を楽しんでいるととることができます。また狂歌名を「関下糸丸」と言いましたが、これは、「咳シタ厭マル(嫌ワレル)」の意です。さらには「関所のもとに住む(糸のように)ほっそりした男」の意味もあるかもしれません。この狂歌名からすると有飛は、体がスラリとしていて、風邪をよく引き、シャレが大好きというように思われます。

 有飛は俳人として活躍し、中野卜亀や高須青路らとの百韻などが後裔の家に残っています。国語研究、国学に造詣が深く、多くの著述を残しています。『四十八音略説』『四十八音義訳』という音韻研究書、『万葉正解』『古今温潯解』という古典の注釈書、『花の塵和歌集』という狂歌集まで書いています。これらの著述が全く世に知られなかったのは国学者として認められていなかったためと、その内容が遠江における国学の主流と異なるためでした。

 遠江の国学は、師を尊ぶ念が篤かったのに、有飛は、国学者が尊崇した賀茂真淵、本居宣長をことごとく批判しました。例えば、賀茂真淵の『冠辞考』に見られる延言約言説を批判し“真淵ノ冠辞ノ説皆妄語ニシテ実ニ癡人ノ夢ヲ語ルガ如シ”(『万葉正解』一の一枚裏)と言い切っています。しかし、有飛は、ただ批判をしただけではなく、真淵・宣長を自由に批判することによって、ア行ヤ行のエ音分別など、国語学史上賀茂真淵、石塚龍麿に次ぐ業績を挙げています。

 鱸有飛は、文化10年(1813)9月20日に58歳で亡くなりました。没後、新居の新福寺に葬られますが、その後、墓は浜松市中央区牛山の玄忠寺墓苑に移されました。

出典:「浜松の史跡」続編 浜松史跡調査顕彰会刊・展示会記念「鱸有飛・鱸有鷹展」