【縣居通信8月】
勤皇の母・松尾多勢子
「木曽路はすべて山の中である。」
島崎藤村の『夜明け前』は、藤村の父がモデルの主人公・青山半蔵の目を通して、江戸幕府の崩壊から明治維新にいたる激動の歴史が美しい文章で綴られています。
全編を貫くのは国学の思想です。藤村の『夜明け前』に登場して「勤皇の母」と慕われ活躍したのが松尾多勢子です。
松尾多勢子と国学はどのようにして結びついたか?
多勢子は、文化8年(1811)に信濃国伊那郡(長野県飯田市)に生まれました。父親は俳諧や文芸を好む教養人で、多勢子に幼少のころから読み書きや和歌などを学ばせました。19歳のときに嫁ぎ、家事を切り盛りする傍ら、
和歌を石川依平等、国学を平田篤胤門人の岩崎長世等に学び、文久2年(1862)、夫の許しを得て50歳を少し超えた年齢で単身京に上り尊皇攘夷運動に参加したのです。
江戸時代の後期、文化・文政のころ、国学者が次々と伊那谷を訪れています。信濃国に平田派国学を広めるのに最も影響を与えたのは岩崎長世という人でした。嘉永5年(1852)、長世は飯田を訪れ、和歌や能楽を教える傍ら世の中の動きを語り、平田派国学を論じ、平田篤胤没後門人を拡大させていきました。このときの入門者の中に松尾多勢子もいたのです。
長世が飯田を去るまでの12年間に教えを受けた者は80人を超えたと言われています。その後、伊那谷の国学は時勢にのり、水戸浪士の伊那谷通過や上洛しての志士的活動に影響を与えていきます。
さて、当時の京都は攘夷の空気が満ち、全国からの勤皇の志士が集まっていました。多勢子が上洛した年は、坂本龍馬が土佐藩を脱藩し、薩摩からは島津久光が上洛、さらに寺田屋騒動が起こるという激動の年でした。
多勢子は上洛後、和歌を通じて「信州から出てきた歌詠みばあさん」というふれ込みで、平田派国学に通じる長州や土佐の志士たちとつながり国事を語り合い、公家の歌会にも参加しました。多勢子は信州出身の老女だっため、会う人を油断させることができました。「娘を探しています。」などと言って、情報収集していたという話もあります。まさか女性志士がいるとはだれも思っていませんでした。
明治元年(1868)、一旦、帰郷して志士たちを援助していた多勢子は、58歳のとき、新政府の要人となっていた岩倉具視に招かれて岩倉家の分客となり、岩倉家の家政一切を取り仕切り、「女参事」と呼ばれたそうです。岩倉具視の多勢子への信頼は厚く、彼女の助言は必ず受け入れられたと言われています。明治27年(1894)6月、天寿を全うして84歳で没しました。
※平常展では、多勢子の和歌が展示されています。ゆっくりと御鑑賞ください。