【縣居通信7月】
遠江国学の中心となった国学者栗田土満(くりたひじまろ) その素顔に迫る
真淵の弟子である菊川市出身の国学者栗田土満について、賀茂真淵との関係や足跡については、既に令和3年7月号で紹介しました。今回は現在も残っている逸話を交え、その素顔や人間性に迫ってみたいと思います。
栗田家の言い伝えによりますと、
土満は大きな体の持ち主で、温和な性格をしていたそうです。さらに、
とても聡明であったにもかかわらず、自分の学力を鼻にかけて自慢したり、威張ったりしなかったということです。そんな穏やかな土満でしたので、門人や後輩たちからとても慕われていて、他の遠江の国学者、石塚龍麿、夏目甕麿、高林方朗、服部菅雄、石川依平たちも、常に土満に師事して教授を受けています。また、東海道を行き来する国学者たちは必ず土満のところに立ち寄ったと言われています。
賀茂真淵の没後、土満は交流のあった宣長に入門しようとしますが、宣長はなかなか入門を認めなかったそうです。それは、
宣長は土満のことを「遠州の大人(うし)」と呼び、共に学問に励む友人としてみていたからです。しかし、土満の入門への熱い思いにより、土満が49歳の時に遂に宣長は入門を認めました。宣長と初めて出会ってから10年後のことでした。こうして本居宣長に入門した土満に宛てた宣長のが書簡が残されていて細やかな交流の様子が偲ばれます。
また、土満の賢さを示す次のような逸話が残っています。
あるとき、浜辺のながらみ売りが、「土満という方は偉い学者であるとのこと、また平川村の某も学者と聞いているが、どちらが偉いのかひとつ確かめてやろう」と思い、まずはじめに平川村の某のところへ行って「ながらみという字はどういう字を書くのか」と尋ねたそうです。
すると、平川村の某は「よしよし、この次に来るまでに調べておいてやろう」と答えました。それから、そのながらみ売りは土満のところに来て同じように「ながらみという字はどう書くのか」と尋ねました。すると土満は「ああ、ながらみか、それは仮名で
ながらめと書けばよろしい」と即答したのでした。ながらみの書き表し方など、物知りで聡明な土満にとっては何でもなかったに違いありませんが、ながらみ売りはいたく感心したとみえて、今でも土満の逸話として残されています。
<参考>『栗田土満翁傳』(発行:栗田土満顕彰会)
<栗田土満 略年譜>
・元文2年(1737年)城東郡平尾村(今の菊川市)平尾八幡宮の神主の家に生まれる。
・明和4年(1767年)31歳の時、賀茂真淵に入門する。
・安永元年(1775年)39歳で本居宣長、本居大平と初めて対面する。
・天明2年(1785年)49歳で本居宣長に入門する。
・寛政2年(1790年)54歳の時、学び屋「岡廼舎(おかのや)」を平尾の地に完成させる。
・文化8年(1811年)75歳で病没。