メールでのお問い合わせはこちらから

お問い合わせ

縣居通信


【縣居通信5月】
遠江が生んだ偉大な国学者 賀茂真淵 ~ 名前の変遷を追って ~
 賀茂真淵の名前は、真淵が37歳のときの京都への遊学を契機として名乗り始めたと言われています。姓の賀茂は、葵祭りで有名な上賀茂神社に由来します。真淵は著書『万葉解(まんようかい)』序で自分の祖先に触れて「抑(そもそも)真淵が遠津祖賀茂の成助てふ人、逸疾振(ちはやふる)其神山にありて、松のつきせぬ事の葉を世々につたえ」としています。京都伏見への遊学は遠い先祖との繋がりを強く認識するとともに、『新古今集』の歌人として名高い賀茂成助(かもなりすけ)の存在を知ることで、歌人としての意欲を湧き立たせる大きな契機となりました。名の真淵の「真」は「本物の」「立派な」を意味する美称で、真淵の最初の師、尊敬する杉浦真崎(まさき)の「真」と同じでしょう。「淵」は、真淵の故郷の郡名である「敷智(ふち)郡」につながります。
 実は賀茂真淵には、他にも幾つかの名が残されています。そこで賀茂真淵以外の名について紹介します。

三四参四三枝驂四三之
 真淵は、元禄10(1697)年3月4日に生まれています。そこで幼名は三四(参四、三枝、驂四、三之、全て文書にあります)と名付けたと言われています。3月4日に生まれたから三四とは何とも分かりやすい名付けです。

政躬政藤政成
 享保5(1720)年に、政躬と名乗っています。この年は、真淵24歳で、氏神賀茂神社に雨乞いの歌文を奉納した年です。また、政藤と名乗ったのは、荷田春満と出会った諏訪神社の杉浦家月次歌会に出席した時です。そして、政成と名乗ったのは享保8(1723)年、岡部政長の女(むすめ)と結婚したときです。このように真淵は人生の転機にあって名乗る名前を変えています。また、それぞれの名前に共通する「政」の字は、父政信の名に見られるように、岡部家の通り名です。

市左衛門春栖
 享保9(1724)年に最初の妻である政長の女と死別した真淵は、翌享保10(1725)年に母の縁で梅谷本陣の婿養子となりました。そこで梅谷本陣の名である市左衛門を名乗り、また実名を春栖としました。

衛士
 延享3(1746)年以降には衛士と名乗りました。延享3(1746)年は、田安家和学御用となった真淵50歳の年です。真淵は、田安家に仕えることをきっかけに衛士と改名したのでした。衛士とは、「諸国の軍団から選ばれ、宮中の警護などをする衛門府の兵」のことで、田安公をお守りするという真淵の心意気が名に表れています。

県居
 明和元(1764)年に真淵は、日本橋浜町に移り住み県居と号しました。実は、真淵が移り住んだその住まいのことを県居(田舎風の住居こと)と言ったのです。現在、県居小学校、県居協働センターなどにその名が残されている「県居」は真淵が晩年移り住んだ田舎風の住居のことを表しています。

 この他にも、京都での歌会に出席したときの淵満(37歳)、晩年に名乗った県主、漢詩の号である淞城茂陵維陽などの名もあります。このように真淵は実に多くの名を残しています。
※参考 小山正著『賀茂真淵伝』 寺田泰政「賀茂真淵名号私見」(『遠江』第20号)