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縣居通信


【縣居通信9月】
賀茂真淵と女流門人たち
 江戸で活躍した賀茂真淵には真淵を慕う多くの門人(県門)がいました。門人は、多士済々で、本居宣長をはじめ、江戸の橘千蔭・村田春海、遠江の内山真龍や栗田土満ら、全国に広がり、塙保己一、平賀源内も門人簿の中に名を残しています。そして門人の数は三百四十人余りであったと言われています。中でも、県門の大きな特徴としては女性が多く、その三分の一を占めていました。

県門の三才女

 女流門人の中でも油谷倭文子(ゆやしずこ)・鵜殿余野子(うどのよのこ)・土岐筑波子(ときつくばこ)の三人が優れ、「県門の三才女」と言われています。

 油谷倭文子(1733~1752)江戸京橋の商家伊勢屋油谷平右衛門の娘。利発で美しく、歌才文才に優れていましたが、二十歳の若さでなくなりました。真淵は実の子のように倭文子を可愛がり、長歌「倭文子をかなしめる歌」を詠み、その夭折を悼んでいます。遺稿集『文(あや)布(ぬの)』に、紀行文『伊香保の道ゆきふり』や書簡・歌集が収められています。

 鵜殿余野子(生年不明~1788)旗本の家柄に生まれ、漢学者鵜殿士(し)寧(ねい)の妹です。若くして紀州徳川家の大奥に仕え、清子または瀬川と呼ばれました。独身のまま紀伊家に勤め続けて、大奥年寄りとなり、晩年は出家して涼月と号しました。詠歌や和文の制作に優れた力を発揮しました。真淵は、余野子に心を許していたところがあり、本音を語った手紙を送っています。

 土岐筑波子(生没年未詳)旗本土岐頼房の妻で本名茂子。生没年は未詳ですが、かなり長命であったと伝えられています。特に詠歌に優れ、「かぎりなく来れどもおなじ春なればあかぬ心もかはらざりけり」の歌を、真淵は「天暦の頃の女房の口つきおほゆ」と賞賛しました。
 「県門の三才女」以外にも、森繁子(もりしげきこ)や吉岡(野村)弁子(ともいこ)等多くの女性歌人が真淵のもとで学びました。

 令和4年度特別展「賀茂真淵の育てた女流門人たち」〔期間 9月29日(木)~11月27日(日)〕では、真淵の女流門人たちへの指導の様子が分かる資料や女流門人たちの作品を紹介します。また、本居宣長の女性への返し歌や当時活躍した女性たちの作品も併せて紹介します。