【縣居通信5月】
真淵先生の指導が書き込まれた本居宣長の『万葉集』
『万葉集』巻三(雑歌355)に次ような歌があります。
「大汝少彦名(おほなむちすくなひこな)のいましけむ志都(しつ)の石室(いはや)は幾代経(いくよへ)にけむ」
※大汝(大国主の神)や少彦名命がいらしたという、この志都の岩屋はどれほどの年月を経ているのだろう。
大国主命と少彦名命は『古事記』『日本書紀』などに出てくる国造りの神です。二柱の神が住んだという岩屋の候補地として、江戸時代には石見国(島根県)、播磨国(兵庫県)などが考えられていました。伊勢国に暮らす宣長にとって、石見や播磨は遠方の地域であり、全く土地勘のない場所でした。
宣長が使った『万葉集』には、多くの書き込みや付箋があり、研究の過程で集めた情報が付け加えられていました。「大汝」の歌の見開きを見ると、書物からの引用や、師である賀茂真淵からの意見を書き込んだ箇所が確認できます。
本居宣長記念館発行「ふみの森探検隊通信37号」(R3.1.26)では、賀茂真淵の指導を次のように紹介しています。
《賀茂真淵》播磨国に生石(オホイシ)大明神という造りかけの岩屋があり、これが「志都のいはや」だとされている。しかし、神が造りかけの岩屋に暮らしたというのも奇妙なことで信じがたい。(矢印の部分)
宣長も播磨国説を支持しており、付箋にその宝殿の前には生石子(おうしこ)・高御座(たかみくら)という二柱の神を祀った社が構えられていることなどを書き込んで補足しています。
後に、造りかけの社に神が暮らしたという点に不自然さを感じていた真淵は、岩屋は播磨国ではなく、出雲国(島根県)にあるのだとしました。
古典研究を通して、上代(奈良時代以前)の日本の姿を求めた宣長は、『万葉集』や『古事記』を読み進めながら、古代の地名に思いを馳せました。
諸国の地名、和歌に詠まれた名勝地などをもとにして「日本」という国について様々な角度からその輪郭を捉えようとしたのです。