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縣居通信


【縣居通信4月】
遠江の国学者紹介 浜松出身、放浪の国学者 服部菅雄
 江戸時代中期の国学者服部菅雄は現在の浜松市北区都田町の出身です。服部菅雄は、賀茂真淵や内山真龍ほど知名度は高くないのですが、江戸中期に活躍した国学者、歌人です。安永4年(1775)引佐郡下都田村向山(現浜松市北区都田町)富田与右衛門の二男として生まれました。菅雄は、若い頃から学問の道に入り、寛政5年(1793)、19歳の時には江戸に出て漢学を学びました。そして、菅雄は賀茂真淵の門人であった内山真龍を師と仰ぎ指導を受けました。その後、寛政10年(1798)伊勢松坂の本居宣長を訪ねて入門します。菅雄24歳、宣長69歳のときでした。菅雄は封建的思想が強く、意志を曲げることのない性格であったと言われています。そしてこの頃、菅雄は島田宿(現静岡県島田市)の豪家服部家の養子となり服部菅雄となりました。

 当時、服部家はかなりの資産家だったようですが、学才に長けていた菅雄でしたが商才はなく、31歳のときには住んでいた家屋を失い、妻子すら住むのを嫌がるような粗末な屋敷に越さざるをえなくなりました。それを機に、菅雄は諸国を放浪するようになります。江戸、関西、信濃路、さらに遠くみちのくの山河にまで足跡を残しています。放浪中は、国学を説いたり、古典の講義、歌文の指導などをしたりして諸国を周遊していました。そして、ついに天保8年(1837)の冬、菅雄63歳、放浪の途中、酒田(現山形県)でその生涯を閉じました。放浪中には、宿代に困るほどの貧しい生活を送り、時には無人の船小屋や神社の縁の下などに寝泊まりしたこともあったそうです。
 このような状況は、第三者から見れば、寂しく悲しい晩年と思われますが、菅雄自身は自分の信じるところに向かって邁進し、どんな困難に遭遇しても悠然と運命のままに行動し、自分も他人も恨むことなく、悟りの境地に入って生涯を終えたのでした。なお、菅雄は、『紫の根ざし』『源氏物語解』『篠家文集』等の著書を残しています。