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縣居通信


【縣居通信1月】
江戸での弟子 県門の四天王 村田春海
 村田春海は、延享3年(1746)、江戸日本橋の富裕な干鰯(ほしか)問屋に生まれました。父春道、兄春郷にならい幼年より賀茂真淵に学び、和歌や和文に秀でた才を発揮しました。
 真淵の門下としては、加藤千蔭(橘千蔭)とともに双璧と言われ、国学の面では、仮名遣いや五十音の研究を行いました。平安時代に作られて存在が知られていなかった漢和辞典『新撰字鏡』を発見したのも大きな業績でした。
 十八大通の一人に数えられるほどの遊興により家産を失い、晩年は和歌、和文の教授に資を得る生活を送りました。真淵の万葉風を受け継がず、古今調の才気の勝った理知的な歌を詠みました。また、漢詩文の素養が高く、流暢な文章にみるべきものがあり、この時期の名文家と評されています。

真淵が松坂で本居宣長に出会う旅で、春海も宣長に出会ったのでしょうか?

 宝暦13年(1763)2月、67歳の真淵は田安宗武の命を受け、村田兄弟の春郷・春海のほか、5~6人と共に大和方面へ長期の旅に出発しました。兄の春郷は25歳、弟の春海は18歳でした。
 隠居の身というものの、道中の格式は田安家の家士ということで供人や槍持ちがいました。学術的な旅に槍持ちとは不思議な感じがしますが、封建社会のしきたりでありました。
 5月25日、伊勢参宮の帰途、松坂の旅宿新上屋に宿泊したとき、真淵は34歳の本居宣長に対面しました。これが「松坂の一夜」です。このときは残念ながら、春郷と春海の兄弟は同席していませんでした。
 その後、春海は生涯ただ一度だけ宣長に出会う機会がありました。それは、天明8年(1788)3月10日、春海が43歳のとき、京都方面への旅の途中に宣長宅を訪問したときでした。25年前に春海も松坂で真淵と同席して宣長が出会っていれば、その後の展開が違ってきたように思います。

 宣長と対面を果たした次の年、寛政元年(1789)に春海はちょうど同じ時期に江戸町奉行与力の職を辞して、詠歌と古典研究に専念しつつあった加藤千蔭(橘千蔭)とともに、万葉集の会読を始めることになります。春海の学問研究は万葉集にのみに限られるわけではなく、精力的に国学の様々な分野の研究を進めていきました。
 その間、研究面で先行する宣長に対する思いには背反するものがあったようです。真淵の家集「賀茂翁家集」の編さんに当たって宣長の意向を汲むなど、宣長の学問に対して尊敬の念を抱いていた一方、宣長に対する対抗意識もあったのです。とりわけ文章論や歌論などの春海が得意とする分野において、激しく敵愾心を燃え上がらせました。宣長は春海にとってコンプレックスの対象だったのです。宣長没後、その攻撃は拍車がかかり、宣長の門弟との間で火花が散っていたようです。

 67歳の真淵が、松坂で34歳の宣長に出会う旅にせっかくお伴をしていたのですから、18歳の多感な春海も一度宣長に会っていたらどうなっていたのでしょうか。