【縣居通信10月】
本居宣長、真淵先生にしかられる!
宝暦13年(1763)、5月25日、67歳の真淵は34歳の宣長と松坂の新上屋という旅宿で対面しました。その後、手紙のやりとりをする中で、宣長は自分自身の個性をもちながら、真淵の厳しくも温かい教えを受けるのでした。
宣長が質問するとそれに真淵が答えるというようにして、入門の翌年の宝暦14年(1764)春から明和5年(1768)6月までのわずか5年間で、『万葉集』全巻を2回にわたって質疑応答しています。
真淵は宣長の問をほめたり、その考えを認め励ましたりしています。宣長の研鑽ぶりもさることながら、真淵の教え方に教育者としてのすばらしさを感じます。
宣長がどうして真淵先生にしかられたのでしょうか?
明和3年(1766)4月15日、真淵が70歳のとき、37歳の宣長へ送った書簡では、「不審之問のみにては習学にならぬもの也」と厳しく戒めて、宣長の詠歌を「風調不宜聞ゆ」とけなし、新古今集を好んでいるようではなはだ違っていると、真淵が推奨する万葉調の歌を詠まずにいる宣長をしかっています。
さらに、明和3年(1766)9月16日の宣長宛の真淵の書簡では、激怒した真淵が宣長を激しく叱責しています。真淵をこんなに怒らせた理由は、真淵の説に真っ向から反対し、自説を書き送ったからです。長い間、味読した上で到達した結論、万葉六巻論を入門したての若い門人が真っ向から否定するのですから無理もありません。
「惣て信し給はぬ気顕はなれば、是までの如く答はすまじき也」と書き、もう返答はしないと破門の言い渡しともとれる内容でありました。この書簡に宣長は驚いて、ひたすら謝罪します。
明和4年(1767)1月5日の宣長への書簡で「惣ていまたしき御考多候、随分御考或はつゝしみ候て、御問は有へき事也、他事待後音候」として、元のように指導を続けるようになります。
しかし、宣長は真淵に謝ったももの、自説を曲げることはありませんでした。宣長には独自の歌論があり、終生新古今の志向を変えることはありませんでした。
※上記の書簡は、現在展示中です。ぜひ、実物を御鑑賞ください。