【縣居通信8月】
遠江出身の防人の歌も万葉集にあるの?
畏(かしこ)きや 命被(みことかがふ)り 明日(あす)ゆりや 草(かえ)がむた寝む 妹(いむ)無しにして
この歌は、万葉集の巻二十に収められている遠江出身の防人の歌の一つです。歌の意味は、「畏れ多い命令をいただいて、明日からは草と共寝をするのだろうか。妻もなくて。」となります。
作者は、物部秋持という人で防人集団での身分が「国造丁」(クニノミヤツコノヨボロ)ですので、リーダー格でしょう。万葉集巻二十には、歌の作者である7人の防人の出身郡名が注記されています。これによると物部秋持の出身郡は「長下郡」となっています。
さらにもう一首、紹介しましょう。
わが妻も 絵に描きとらむ 暇(いづま)もが 旅行く吾(あれ)は 見つつ偲(しの)はむ
この歌も遠江出身の防人の歌です。しかも、出身郡は同じ「長下郡」です。歌の意味は、「わが妻を絵に写し取る暇があればよいのになあ。防人として長い旅路を行く私は、それを見ながら妻を偲ぶことであろうに。」となります。
作者は、物部古麻呂(古麿)という人です。写真がない時代の古代兵士にとって、愛する妻の肖像画は何よりも貴重なものであったと思います。それを描く時間がなくて心を残して出発した悲しさを古麻呂は歌に詠みました。
二つの歌の作者の身分関係は、物部秋持の方が上です。古麻呂は長下郡に居住し、国府(今の磐田市)の軍団に通って武技の訓練を受けた者と考えられます。防人は軍団の兵士から選ばれたのでした。
遠江の「長下郡」とは、どこにあったのでしょうか?
奈良時代における遠江国の郡名は正確には分かりませんが、10世紀に成立した『和名抄』によると浜名・敷智・引佐・麁玉・長上・長下・磐田・山香・周智・山名・佐野・城飼・蓁原の13郡だと思われます。遠江国は、東は大井川を境にして駿河国と接し、東は三河国に続き、北は信濃国と境を接しています。さらに、南は遠州灘、中央に古代の入り組んだ天竜川が流れ、西側には遠つ淡海の国名の起源になった浜名湖が大きく位置しています。この海や山の間に遠江の13郡・96郷があったのです。
『続日本紀』によると、和銅2年(709)に長田郡を長上と長下の2郡に分けたとあります。現在の東海道より南に長下郡の故地があったとすると、古代の天竜川河口までの流域の左右にわたる地域が長下郡であり、西側は今の浜松市に、東側は今の磐田市になるものと思われます。その後、長下郡は部分的に敷智郡、長上郡、豊田郡に吸収されていきました。
なお、天平勝宝7年(755)2月に遠江国府(磐田市)を出発したこの二人を含む一行は、天平宝字元年(757)8月の防人廃止の勅により、3年間の任期を待たずに帰還の日を迎えることができたようです。