【縣居通信5月】
偉大な国学者 賀茂真淵の素顔に迫る~真淵にとって忘れられぬ女性 最初の妻・政長の女(むすめ)~
「国学」とは、江戸時代の中頃に生まれた学問で、
仏教や儒教伝来以前の日本人のものの見方や考え方を明らかにしそこに日本人の生き方を見出そうとした学問です。
「国学」の研究目的は、
『万葉集』、『古事記』、『日本書紀』などの日本の古典を研究することによって、仏教や儒教が日本に渡来する以前の日本の姿を知ることでした。賀茂真淵は、その姿こそが、日本の原型であると考えました。そして、その原型すなわち「古道」はどのようなものであったかを研究しようとしたのでした。
「古道」とは、仏教や儒教が渡来する以前の日本の政治、経済、社会、風俗・風習、そして言語を含めてすべてを指しています。
それでは、賀茂真淵たち国学者はどのように研究を進めていったのでしょうか。それは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などを読み解くことで、仏教や儒教が渡来する前の日本の姿を研究したのでした。みなさん既にご存じのように『万葉集』は奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集です。その
『万葉集』には儒教や仏教にとらわれない純粋な日本人の心が歌の形で残されていました。そして、『万葉集』では「万葉仮名」が使われていました。「万葉仮名」とは、日本語を表記するために表音文字として用いた漢字のことです。したがって、「万葉仮名」は平仮名・片仮名ができる以前に、その漢字本来の意味とは異なる日本語の音を書き記したものになります。そのため、
異国の影響を受けていないであろう『万葉集』を読むことを通して、そこに詠み込まれている古代の人々の暮らしや考え方、文化を研究したのでした。
賀茂真淵は古語に古代人の心が表れているとして、『万葉集』に古代の精神を求めました。そして、賀茂真淵は『万葉集』の研究を通じて、日本人の素朴な心情を
「男性的で大らかな歌風」という意味の「ますらをぶり」と表現しました。そしてそれは『古今和歌集』に代表される平安時代から続いた女性的でやさしい歌風の「たをやめぶり」に対して、男性的な精神風土の尊重を主張したものでした。
このように国学を研究していく上で、『万葉集』、『古事記』、『日本書紀』はかけがえのない貴重な資料だったのです。
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『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、759年以後に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集です。天皇や貴族、宮廷歌人をはじめ無名の人々に至る、さまざまな身分の人が詠んだ歌を4500首以上も集めたものです。万葉集が編さんされた頃、仮名文字はまだなく、「万葉仮名」という表記法を用いました。仮名の代わりに漢字を使い、その意味とは関係なく音訓だけをあてて表記したもので、日本人による最初の文字であり、のちに平仮名と片仮名が創造されるもととなりました。
『古事記』(こじき)は、日本最古の歴史書です。元明天皇の命を受け、太安万侶(おおのやすまろ)が編さんし、712年に成立しました。『古事記』には天地創造から推古天皇(554~628年)までの古代史が記されています。その中には神話や歌謡なども多く含まれ、古代日本の優れた文学書としても重要な位置づけにあります。当時は、まだ平仮名と片仮名がないので、和化漢文という、日本語の音を漢字で表す方法がとられました。
『日本書紀』(にほんしょき)は、日本で初めて国家が編さんした正式な歴史書です。天武天皇の命で681年から川島皇子らによって編さんされ、720年に天武天皇の息子・舎人親王らが完成させました。全30巻、すべて漢文で書かれているのが特徴です。ほぼ同時期に編さんされた『古事記』と比較されることが多く、あわせて「記紀」と称されている2大歴史書のうちのひとつとなっています。資料として、帝紀・旧辞のほか寺院の縁起、諸家の記録、中国・朝鮮の史料などを広く用い、神代から持統天皇までを漢文の編年体で記したものです。
☆令和3年度平常展のテーマは「“万葉学者 賀茂真淵”の万葉研究を巡って」です。