【縣居通信4月】
偉大な国学者 賀茂真淵の素顔に迫る~真淵にとって忘れられぬ女性 最初の妻・政長の女(むすめ)~
真淵は、生涯2度結婚をしているのをご存じでしょうか。そして、長く真淵の心にあったと思われるのは最初の妻 政長の女です。江戸時代以前は、女性の名前は広まらず、「○○の女(むすめ)」と呼ばれることが多かったようです。なお、今回、「政長の女」が何度も出てきますが、「女」と略させていただきます。
女の出身は西岡部家(真淵は東岡部家の出)であり、女はその岡部政長の子でした。政長は浜松城主に仕える武士でありながら詩文にも秀でた人でした。女は、その政長の影響もあって、きっと父親譲りで文雅を解する聡明な人だったに違いありません。
真淵は27歳の時、政長の婿養子となり、女と一緒になりました。時に女は、まだ16歳でした。二人が一緒になる前に真淵は次のような歌を詠んでいます。
人めかは 君が門もる 犬にだも 忍びてかよふ よひよひぞうき
(人目を気遣うどころか、君の家の門の犬にすら気付かれないようにと毎夜毎夜あなたのもとに通う辛さよ)
この歌は女との間のことを詠っているのかもしれません。そして、その女との結婚後は、きっと文学や学問の話をしつつ、楽しい日々を送ったに違いありません。そうした日々を深く懐かしむ歌は何首か残されています。そんなに楽しく充実した日々は長くは続かず、わずか9か月ほどで終止符を打つことになりました。女は享保9年(1724)9月4日に17歳で他界してしまったのです。真淵は文雅を解するこの女を深く愛していて、女に学問や歌をもっと教えたかったに違いありません。真淵は、悲しみのあまり真言宗の僧になろうと父母に願い出ましたが、許されませんでした。
また、真淵は次のような歌を残しています。
故郷の 野べ見にくれば むかしわが 妹とすみれの 花咲にけり
(故郷に立ち寄り、かつての野辺を見に来ると、そこに、昔わたしの妻と一緒に楽しく住んでいたことを思い出させる菫(すみれ)の花が咲いていることだ)
真淵の目に菫の可憐な姿と楚々とした女の姿が重なって映り、菫をこよなくいとおしんでいます。
真淵44歳の時の旅日記『岡部日記』には、女の命日に墓に詣でたことを記した後に次のような歌をしたためています。
古(ふり)にける 常世(とこよ)を慕ふ
雁のみは 廻(めぐ)り来てこそ 鳴きわたりけれ
(今は遠い昔のこととなってしまった妻との楽しい常世(浄土)のようなあの頃を恋い慕って、仮の身の私が墓に詣でて涙にくれていると 雁が悲しげに鳴き渡ってゆくばかりだ)
井上豊氏は、「真淵の数奇な運命はこの妻の死とともにはじまった」(『賀茂真淵の学問』)と述べていますが、それは、真淵にとってのこの政長の女の存在の大きさと真淵の人生における光と影とを暗示している言葉のように思われてなりません。真淵の故郷浜松への強い思いはこの「政長の女」への思いと深く重なっていたことでしょう。