【縣居通信2月】
国学者 賀茂真淵の学問~学問に打ち込む姿はどのようなものだったのか~
国学とは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの日本の古典を研究することによって、儒教や仏教が日本に渡来する前の日本人の物の見方や考え方を明らかにし、そこに日本人の生き方を見い出そうとした学問です。それでは、真淵はどのように研究を進めたのでしょうか。
真淵は、
自由討究(自由に自分の考えを述べて追究し合う)の精神を大切にしました。これは、真淵だけでなく国学の先駆者であった契沖(けいちゅう)・荷田春満(かだのあずままろ)も大切にした考え方です。
また、
文献実証(文献に基づいて解き明かしていくこと)にも重きを置きました。
「荷田東万呂いはく、我門にいれる人わがいふことをよしとのみする人ハ、實に文好む人にあらじ、古き徴と理の當れることを合せて、それにたがはんをば師父の語なりとも用ゆべからず、
學は天下の物なり、
師父の家のものと思ふは筒井の中の蛙の思ひなり、とぞ侍りし、」(『百人一首古説』)とあります。このようにして自由討究の精神は文献実証を重要視する精神につながります。真淵の創造は祖述(先人の説を受け継いで述べること)の精神ともつながっていました。
真淵の学問に対する強い思いは誰にも負けないものだったと思われます。妻子、そして養子に入った家を出て、京都、江戸で学び古学を興そう、古道を追究しよう、また一身を立てて祖先に報いようという強い思いを常に持っていて一心不乱に打ち込んだことは予想できます。学問に取り組む真淵の様子がよく分かるエピソードがあります。
それは、不運にも自宅が火事の被害に遭ってしまったときのことです。真淵が江戸に出ていた延享3年(1746)、真淵五十歳の時の2月29日、江戸に大火があり真淵もその火事に巻き込まれ、茅場町の真淵の家も、焼け落ちてしまいました。家が猛火に包まれ、身ひとつ逃れるのがやっとの中で、
真淵が心配したのは家でも生活用品でもなく、書物でした。特に自分が苦心して書き留めた草稿類を何とかしようとその避難に心を尽くしています。さすが学者真淵です。このことがあって以降、真淵は火事に対して非常に警戒心が強くなり、
自分の著作物が江戸にあるのは危険であると考えて、一部の書物は故郷の門人たちに送ることにしたようです。また、明和元年(1764)に転居した浜町の真淵の新居「県居」に作られた、
小松に囲まれ土盛りした穴蔵は、延享3年のこの大火の経験によるものでした。いかにも、研究に心血を注いだ賀茂真淵らしいと思いませんか。