【縣居通信12月】
国学の「三哲(さんてつ)」と「四大人(しうし)」とは?
ある事柄に対して、過去に功績があったり、実績を残した人たちをまとめて「三大○○」などと呼ぶことがあります。例えば、世界三大美女(小野小町、クレオパトラ、楊貴妃)などです。
国学では、功績を残した国学者たちを「三哲(さんてつ)」、「四大人(しうし)」と表したりします。「三哲」という場合には、契沖(けいちゅう)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)の三人を表し、「四大人」という場合には、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤(ひらたあつたね)の四人を表します。
では、どうして、「三哲」「四大人」と違う呼び方をし、人物も入れ替わったりするのでしょうか。それは、国学をどう捉え、その人物をどう考えるかによる違いがあるのです。
文政元年(1818)11月、契沖、真淵、宣長の3人の小伝とその肖像画を加えた『三哲小傳(さんてつしょうでん)』が出版されました。編者は僧の立鋼(りっこう)です。この文政元年10月には真淵の五十年忌が営まれています。また、ちょうどその頃、国学者の伝記が数多くまとめられたようです。そんな時に出版されたのが『三哲小傳』でした。その序文で立鋼は「古き書をよみ、敷しまのやまと心を」知る身となったのは「
円珠庵のあざり、縣居のうし、鈴屋のおきなこのみたりのいさをになむ」と契沖、真淵、宣長の三人を称賛しています。これが国学の「三哲」です。
ちなみに、
「円珠庵のあさざり」は契沖、「縣居のうし」は賀茂真淵、そして「鈴屋のおきな」は本居宣長を表します。
これに対して後の国学者・平田篤胤が、『玉襷(たまだすき)』の中で、古道、古学の観点から
「三哲」の中から歌人であった契沖を外し、そして新たに古道の大義に深く心を入れた人物として荷田春満を加えました。篤胤にとって「古学の道」こそが国学の中心だったのです。そして篤胤の門人であった大国隆正(おおくにたかまさ)の『学統弁論(がくとうべんろん)』(安政4年・1857)の中でそのことがはっきりと主張され、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の四人による国学の「四大人」観が形成されていきました。そして、その後、幕末、明治維新にかけてこの国学の「四大人」が定着していったのでした。
現在、当館では、令和2年度平常展を開催中しています。その中で「国学の四大人画像」を展示していますのでぜひご覧ください。