【縣居通信11月】
真淵の生きた江戸時代中期とは?
真淵が誕生したのは、元禄10年(1697)3月4日でした。時は綱吉が5代将軍となって12年が経過したころでした。この時代は元禄時代といわれ、
「文治政治」の風潮が最もさかんになったころです。5代将軍綱吉は学問を好み、その興隆に力を尽くしたといわれています。
なお、元禄15年(1702)、赤穂浪士が吉良義央を討ったのは、真淵が5才のときのできごとでした。
真淵が生きた江戸時代中期とは、どのような時代だったのでしょうか?
平和をめざす「文治政治」とは、君臣父子の別を知り、下の者は上に従うべし、という秩序形成を第一とする政治です。つまり、法と文書によって基礎づけられた政治体制でありました。
武力で物事を解決する時代から、法と文書で解決する時代へと移行したのです。これにともなって文書を管理する役人(官僚)が必要となり、法の理解が人々に求められるようになりました。その基礎となるのが、読み書きであり、この教育こそが江戸時代を作り上げたといっても過言ではありません。
さらに
教育に力を入れたのは8代将軍吉宗でありました。優秀な藩官僚が養成されても、社会を維持する法度が効力をもつには、庶民の側にもそれを理解する能力が必要です。時代劇では、高札場に掲げられた「御触書」を読めない農民がいて、通りがかりの浪人、庄屋、僧侶などが読むシーンがありますが、実際は寺子屋の普及もあって
町民や農民たちの多くは文字の読み書きや計算もできたのです。
もちろん庶民の能力は武士に劣り、レベルの差も大きかったので、庶民を対象にした触や達は平仮名が多くありました。できるだけ多くの庶民が直接読むことを前提に法度を出していたのです。言葉が通じずコミュニケーションができない方が社会は不安定になり、皆が賢くお互いに理解できる方が安定すると考えたのです。だから、
幕府は教育を奨励したのです。
江戸時代中期は、庶民の知的水準は世界的にすでに高かったわけです。各地に藩校や私塾ができていましたが、藩士だけでなく町民や農民にも学ぶ機会があったのです。子供を寺子屋や私塾に積極的に通わせ、お金がない家は野菜を持たせて手習いに行かせることもありました。貧しくても自分のために積極的に学べる環境が江戸時代中期にはあったのです。
真淵が生きた江戸時代中期には、国学が発展する素地が十分用意されていたのでした。