【縣居通信10月】
万葉に思いを馳せて
~真淵和歌『詠薄暮千鳥』【浜松市文化財】~
賀茂真淵が荷田春満に初めて会ったのは、真淵26歳、浜松の木村玄竹亭での和歌会の席でした。11歳から教えを受けていた春満の姪、杉浦雅子(真崎)と和歌会を主催していた雅子の夫、杉浦国頭(くにあきら)の仲介によるものと推察できます。その後、真淵が、伏見に出て正式に春満に入門したのは、31歳のころとされています。そして、本格的に伏見の春満の許に上京したのが37歳のころでした。
真淵が39歳(享保20年(1735))のときのものとされる和歌懐紙が下の
『詠薄暮千鳥』【浜松市文化財】の和歌です。
和歌の意味が取り易いよう漢字交じりに直すと、
〝
潮曇り入江の暮に鳴く声を聞くは千鳥の見らく少なき〟となります。
※「見らく」は、ク語法により「見ること」という意味。ク語法とは活用語の語尾に「く(らく)」が付いて、全体が名詞化する語法。
果たして、どこの入り江でしょうか。作者が真淵なので浜名湖だととれますが、歌っている場所が伏見ですし、千鳥というと、思い浮かぶのは、〝近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(万葉集266)〟の歌です。これだと琵琶湖になるでしょう。ここで注目したいのはこの和歌は、実感、実情を詠んでいるというより、入り江・千鳥という素材から『万葉』の柿本人麿の歌を思い浮かべるという文学的連想の豊かさを楽しんでいることです。〝見らく少なき〟という言い方も、『万葉集』の〝潮満てば入りぬる磯の草なれや見らく少なく恋ふらくの多き(1394)〟を踏まえたものです。そして、万葉仮名で書いたのもそういうことを狙っているのです。
真淵は万葉風(※1)の和歌を多く詠みました。それは、『万葉集』を研究し味読するのに、横から眺めるのではなくて、『万葉』の世界に直(じか)に分け入り、『万葉』風の歌を自分も詠み、『万葉』風の書き方をしてみて万葉人になりきろうとしたのです。こうした考え方や万葉人が使っていた万葉仮名(※2)で和歌を書くという試みは、真淵の師であった春満が試み、真淵たちに勧めたものでした。真淵たちは、それを実践したのです。
こういう若き日の体験から、真淵はのちに69歳の時の『にひまなび』などで、〝
万葉集を常に見よ。且つ我歌もそれに似ばやと思ひて、年月によむほどに、其調も心も、心にそみぬべし〟と力説するのでした。
※1万葉調、万葉風とは…
万葉集の歌の特色をなす調べ。現実生活における素朴な感動、強い実感を素直に表現し、格調は雄健でおおらか。五音七音のリズムが強調される五七調を主とし、短歌では二句切れ・四句切れが多い。真淵はのちに「ますらおぶり」と称した。
※2万葉仮名とは…
上代(奈良時代以前)の話し言葉の音を写した文字。
例)「阿米都知能」と書いて「アメツチノ」(→天地の)とよむ。
※真淵の和歌『詠薄暮千鳥』【浜松市文化財】は、令和2年度平常展・特別展にて展示中です。