【縣居通信2月】
「賀茂真淵(かものまぶち)」と盲目の大学者「塙保己一(はなわほきいち)」
明和6年(1769年)春、73歳になった真淵は、24歳の盲目の青年の入門希望を受けます。名は「保木野一(ほきのいち)」、後に塙保己一として、666冊にも及ぶ古書を集めた大叢書(そうしょ)「群書類聚(ぐんしょるいじゅう)」の出版を成し遂げ、和学講談所を開設した大学者の若き姿でした。
入門した保木野一青年は、真淵が10月に亡くなるまでわずか半年でしたが、古語や歴史に通じている真淵から「六国史」などを学んだといわれています。
今の埼玉県本庄市児玉町(当時の武蔵國児玉郡保木野村)の農家に生まれ、7歳で病気により失明。修行して立派な人になりたいと15歳で江戸に出て、盲人たちがあんまや針、音曲などで身を立てるための修行をする自治的相互扶助組織“当道座”に入ります。師匠である雨富検校は、あんまや音曲などの技能の習熟が進まず、自殺まで考える保木野一に、文を理解する才能に秀で、学問が好きという保己野一の長所を伸ばす道を切り開きます。自ら書を読むことができない保己野一に、読んでくれる人を依頼。さらに歌学、神道、外国書講読、法律(律令)、医学などの先生に入門させます。こうして学問の道に邁進し始めた保己野一は、歌学の師、萩原宗固から「今、江戸で高名な学者賀茂真淵に入門するとよい」と言われたのでした。
盲目で自ら書を読めない青年の入門希望に、周囲は異を唱えたかと思われます。しかし、真淵は、保木野一の話を聞き、読んでもらって覚えているという書物から彼の学識の高さや学びへの志の深さを見抜き、弟子入りを快諾。歴史書「六国史」の講義などを行いました。最晩年で体調も万全ではなかった真淵が、学者として書物の執筆に打ち込み、和歌を詠じ、訪れる門弟たちに真摯に教える姿勢は、保木野一青年のその後の生き方に大きな影響を与えたと思われます。あきらめずに学び、大著作をやり遂げ、和学講談所を開設して、多くの門人を育てた塙保己一の生き方は、真淵の生き方と重なるところが多いように思います。