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縣居通信


【縣居通信6月】~2019年は真淵翁没後250年
品川東海寺大山墓地の真淵のお墓は明治期に今のスタイルに
 今年が賀茂真淵翁没後250年にあたります。真淵が亡くなり、埋葬された江戸品川の東海寺塔頭少林院の後山のお墓は、江戸名所図会にも描かれるほど多くの人々が訪れる地であったようです。当時は、お寺の境内であり、今のような鳥居などはありませんでした。
 その真淵翁の墓が、現在のような、前面に鳥居、周囲を塀に囲まれた今の姿になったのは、明治中頃です。品川区立品川歴史館に、東海寺文書が寄託されており、その中に、遠江出身の長谷川貞雄、鷹森茂、賀茂水穂、岡本孝承らと東海寺が、改葬、墓地の改修について取り交わした文書があり、明治15年9月11日の日付が確認できます。そして、鳥居に向かって右側に「賀茂翁墳墓改修之碑」があり、その碑文に、「明治21年5月」とあります。この年には、今の様子になったと思われます。
 現在、改修之碑は、表面の摩耗もあり、判読は難しい状況です。
 しかし、幸い記念館には、拓本が現存し、翻字があります。それらからは、明治期、真淵翁の業績を顕彰しようとした多くの人の熱い思いが伝わってきます。  碑文には、「真淵翁は、古事学びの道の先導と仰がれてきたが…、年を経て、他の人々の墓もできて手狭となり…」と記され、賀茂水穂、大伴千秋を軸に、まず遠江出身の人々に改修費の捻出を呼びかけ、翁の後裔である岡部喜代子氏に語らい、明治15年に柩をうつしたことが記されています。さらに、朝廷にも金若干を賜り、国学の四大人として正四位を贈られる中で、工事を進めたことが記されています。文末には「かくてこそ、このおくつきどころ(=神道における墓)も、その功績とともに、たかくひろく…後の世に遺す憾もあらざりけれかれ。このことをかきしるし、さらにいしぶみにゑりをく(=彫りおく)ものぞ。」と高揚に満ちた文で結ばれています。
 石碑の題字は、徳川御三卿で、真淵翁が和学御用として仕えた田安家の当主で、後に大正天皇の侍従長を務めた従五位伯爵徳川達孝(さとたか)氏、文は、本居宣長の子孫である本居豊頴(とよかい)、書は、帝室博物館監査掛評議員であった国学者の小杉榲邨(すぎむら)というそうそうたる人物です。
 なお、この改修之碑の拓本は、5月31日から始まった令和元年度平常展で、ロビー正面に展示してあります。