【縣居通信5月】~2019年は真淵翁没後250年~
新元号“令和(れいわ)”の万葉集出典部分と賀茂真淵の万葉集研究書“万葉考”
◆新元号は、日本最古の歌集『万葉集』の中の、歌の部分ではなく、漢文表記
の序文から出典
5月1日から新元号“令和”の時代がスタートしました。この令和は、左の写真のように、万葉集巻五に乗っている“梅の花の歌三十二首併序”のところで、「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ」とある文中の「令」と「和」の漢字から作られました。三十二首の歌の前に記された漢文の中から作られています。文の内容は、天平2年正月13日に、大宰府長官大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅に集い、白梅が美しく咲く庭で宴(うたげ)を催す中で、「中国でも多くの落梅の詩篇がある。古今異なるはずとてなく、よろしく庭の梅をよんで、
いささかの歌を作ろうではではないか。」というもので、九州大宰府の中国文化に精通した役人たちが、舶来の梅の花のすばらしさに感動し、中国の詩作に倣って歌を詠んだ状況が説明されています。出典が日本の国書「万葉集」であることはまちがいありませんが、当時は、中国由来の文化色が濃かったことも伝わってきます。
しかし、この後に続く和歌〈ここでは短歌三十二首〉は、文字こそ中国由来の漢字が使われていますが、当時の日本人の話し言葉を、漢字の読みを利用して表記した『万葉仮名』で書かれています。つまり、和歌は、日本人固有の文化であり、「さあ、梅の和歌を詠もう!」という場面は、日本文化を展開していこう!という気概が伝ってくる場面とも言えます。
◆真淵は日本文化の反映である和歌に注目していた。
万葉集の研究に生涯をささげ、「万葉調の歌こそよけれ」と主張した賀茂真淵。その万葉集研究書“万葉考”(真淵没後は弟子たちが編集し完成)では、万葉考巻九に、梅の花の歌三十二首の和歌の詳しい解説が載っていますが、新元号で注目されている序については、簡単な記述になっています。万葉考の記述部分の概略を紹介します。
題の『梅花哥 三十二首 荓 序』にルビをふり、読みは『ウメノハナノ ウタ ミソヂマリフタクサ (ト) ツイデフミ』。ここの読みを、ならびに序と読んだり、序あわせたりと読んだりするのは、本当の読み方ではない。
このところには、天平二年正月十三日師の家に人々集(つど)いて宴(うたげ)し、春の庭のよきにもよおされて、哥(うた)よみして、心がすがすがしくなったという文が有る。くわしくは別記にいう。
このように、真淵の万葉考では、漢文で書かれた序の部分をくわしく解説し訳することなく、次から記載されている万葉仮名表記の歌の解説や訳に進んでいます。また、くわしくは別記に…とありますが、賀茂真淵全集の万葉考の別記に、該当の記述部分は見つかりませんでした。こうしたことから、真淵が傾注し、注目していたのは『万葉仮名』で書かれた和歌の部分であったということになります。儒教や仏教が伝来する以前の日本人の言葉やそこから分かる日本人のこころ、価値観を追究していた真淵や弟子たちの研究姿勢の一端が感じられます。