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縣居通信


【縣居通信4月】~2019年は真淵翁没後250年
          真淵のお墓はひとつ…ではない
 明和6年、1769年10月30日、賀茂真淵翁は、日本橋浜町の自ら縣居と名付けた家で亡くなりました。今年は没後250年にあたります。享年73、遺言に従って、江戸品川の東海寺塔頭少林院の後山に葬られます。その後、この真淵のお墓は、江戸名所図会にも描かれるほど多くの人々が訪れる地となりました。(参照:縣居通信H30.9月号)

◆品川の他、ふるさと浜松の地にも真淵のお墓があります。
 左の写真の2つの墓石が浜松にある墓石です。それぞれ真淵翁没後、真淵ゆかりの浜松の人々によって建てられました。くわしく紹介します。

《真淵が生まれた伊場の岡部家が建てたお墓》
 記念館に隣接する縣居神社の南側の斜面、真淵翁の生家のあった場所の上の林の中に墓石が並んでいます。真淵の実父、岡部政信をはじめとする岡部一族のお墓がある中の1基に、4行の法名が刻まれ、その中に「梵行院浄阿光順居士」の文字があります。真淵翁を指しています。この法名は、次に紹介する真淵が浜松宿梅谷本陣に婿入りしてもうけた実子「真滋(ましげ)」が建てた真淵夫妻のお墓の法名と同じです。岡部家の血筋である真淵を偲んで刻んだものと思われます。<なお、この墓地は私有地で、許可なく入ることはできません。>

《真淵が養子に入った梅谷(うめや)本陣の真滋が建てた真淵夫婦のお墓》  真淵翁が亡くなると、真滋は浜松伝馬町の教興寺(きょうこうじ)に父母のお墓を建てました。この墓は、教興寺が中沢町に移転したのに伴い、昭和34年(1959)に、市火葬場東側の中沢墓苑に移りました。記録によれば父の真淵が「梵行院 浄阿光順居士」、母(真淵の妻)が「名声院 超弌清寿大姉 」と刻まれているとありますが、現在は苔に覆われ、判読は難しい状況です。左下写真のように梅谷(うめたに)家の墓として整備され、公営墓苑内ですので、いつでも訪れることができます。場所は、墓苑中央の水場の建物から南北に延びる植え込み沿いに北側へ進み、神式の墓地が集まる一角の北西角地です。通路を挟んで北側にキリスト教の墓地が集まった区画があります。
※梅谷…現在の子孫の皆さんは[うめたに]と名乗っています。真淵が養子に入った江戸時代の本陣は、梅谷[うめや]と名乗っていたと思われます。