【縣居通信12月】真淵翁の<年暮れて~>の和歌2首
賀茂真淵翁の歌には「年暮れて」で始まる和歌が2首あります。いずれも40代の江戸出府後に詠んだ歌です。40代の真淵は年の暮れを迎えるにあたり、新しい年に何を思っていたのでしょうか。
年くれて空には降らぬ白雪の知らずかしらに積もりそめぬる
【口語訳】年が暮れたが、空にはその気配もなく、一向に降ってはこないところの白雪が、いつのまにか知らず知らずのうちに、わたしのかしらに積もって白髪交じりの頭になってしまった。(奥村晃作氏訳)
詞書(ことばがき)には「四十五の年の暮に雪の降らざりければ」と記され、左注には「これはくしけづりければ、白髪の交じりてけづられけるに驚きて詠めるなり」とあります。
真淵は師の荷田春満が亡くなった後、元文二年(1737)41歳の時、江戸に出て生活を始めました。その時、浜松の師である杉浦国頭が江戸在中の春満の弟の荷田信名や甥で養嗣子の荷田在満に手紙を出して、真淵の江戸での生活を頼んでいます。
この歌は寛保元年(1741)の作で、前年の元文五年(1740)には、杉浦国頭(享年63歳)が亡くなり、その墓参を兼ねて7月から9月にかけて郷里の浜松に帰省しています。(※その道中の見聞や滞在中のことを綴ったものが『岡部日記』です。)
江戸に出て5年。このころの真淵は荷田在満の手伝いをしながら、生計を立てていました。年の暮れを迎えた真淵は、いつのまにか白髪混じりの頭になった自分を見つめながら、将来が見通せない幾ばくかの不安をこの歌にこめていたのかも知れません。
年暮れて松をも立てぬすみかにはおのずからなる春やむかへむ
【口語訳】年も暮れていこうとしているが、わたしは正月の松飾りも立てはしない。その用もないような生活をしている。松飾りを立てないわが家。世間並みの暮らしでないわが家。でもそのようなわが家にも、それ相応の豊かな春はやってくるのだ。(奥村晃作氏訳)
延享元年(1744)の歌といわれています。詞書には「都のかたへに住まへど、人並々ならぬ身にしもあらねば、春を迎ふる業とて何事も設けず。さるは門さしてなどもあらねど~」とあり、〔妻子を浜松に置いての独居生活で勤め口を持たない、なかば浪人生活は人並みではないと、寂し気に語り、新春を迎えるにあたり、別に閉門しているわけではないが松飾りも立てない〕と言っています。貧しくても今を生き、春の訪れを願う真淵の気持ちが伝わってきます。
この二首の歌からは、真淵の江戸での生活の苦労や将来を見通せない不安などがにじみ出てきます。しかし、そんな真淵に大きな転機が訪れました。
寛保二年(1742)、真淵46歳の時に「国歌八論」論争が起き、真淵は、八代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武公との関係が深まります。真淵は、田安家の御用学者であった荷田在満を通して、宗武公からの要請を請け、この論争に加わります。以来、宗武からいろいろな下問(かもん)を受けるようになり、弟子が少しずつ増え、生活も自立できるようになってきました。真淵はこの後、延享3年(1746)、50歳の年に荷田在満に代わって「和学御用」として田安宗武に仕え、「田安家仕官時代」を迎えます。賀茂真淵に江戸での春がやってきます。