【縣居通信6月】賀茂真淵が贈った「栗田土満(くりたひじまろ)」の名
栗田土満(くりたひじまろ)(元文二年<1737>~文化八年<1811>)は遠江の国城飼(きこう)郡平尾村(現菊川市中内田平尾)の平尾八幡宮の神主、佐兵衛信安の長男として生まれました。通称は民部といい、「土満」は賀茂真淵から贈られた名です。
土満は自分の家に寄寓していた俳人周竹(しゅうちく)から「冠辞考」を貸与され、真淵への入門を薦められました。明和四年(1767)31歳の時、父信安の許しを得て、江戸の真淵を訪ね、入門しました。その後、土満は熱心に学問に励み、江戸の真淵のもとへ、わからないことや聞きたいことなどを手紙に書いて質問しました。真淵は彼の努力を称え、明和五年(1768)「土満」の名を贈りました。自分の出身地遠江の弟子である土満の力量に期待することが大きかったものと想像されます。しかし、土満が入門してから、わずか二年七ヶ月で真淵は亡くなってしまいました。真淵の死後、土満は師真淵の功績を称え、真淵への思いを数々の長歌に詠っています。
また、土満は同じく遠江の弟子であった内山真龍らと松坂の本居宣長のもとを尋ね、天明五年(1785)正式に入門しています。
〔『栗田土満長歌鑑賞』 -後藤悦良氏著から-〕 <岡部大人の忌日に詠める>
照る日にし 雲かゝるごと 鏡にし 塵つもるごと うつそみの 世の人みなは 瑞垣の 久しき時ゆ からごとに あひ口あへて 明らけき 神のみ国の 古事を 忘らえ果てて 秋霧の まどへるはしに 大直日 神の直日と かしの実の ひとり悟りて ますらをの 手にとり持てる 梓弓 心ふりおこし 石上 古き神代の 古道の あら草木の根 刈り払ひ いそしみまして 道の口 いはひ始めし わが大人の みかげ尊し 月に日にけに
【口語訳】(真淵先生は)照り輝く太陽に雲がかかるように、また鏡に塵が積もるように、(うつそみの)世の中の人がみな(瑞垣の)遠い昔から、中国のことに口を合わせて、明らかな神のみ国である日本の古い事柄を忘れ果てて、秋霧に迷うように迷っている間に、正しい道にもどそうとする大直日の神の意志を(かしの実の)ひとり悟って、立派な男子が手に持つ梓弓を振りおこすように、心を奮い立たせて、(石上)古い神代の時代の、古い正しい道をさえぎる誤った考え方や見方を排除して、熱心に学問をなさり、新しい国学の道を切り開かれた。その真淵先生の恩恵は、まことに尊いことであると、月日が経つにつれてますます思われることだ。
土満は天明7年(1787)51歳の時に江戸に下り、真淵の墓前で、「私が通った県居はここだといってもいまでは見ることができない、先生の声も聞こえない。私が道に迷ったのでもなく、秋霧が隠したのでもない。県居大人はお隠れになったのだ。」と真淵を偲んでいます。
<江戸にくだりける時、県居翁の墓どころにまゐりて>
いにしへに わがかよひこし あがたゐは こゝといへども いにしへに 見しごともあらず 見し人の 声もきこえず 玉ぼこの 道やまどへる 秋霧の 立やかくせる 玉ぼこの 道もまどはず 秋霧の 立ちもかくさず 県居の 大人のみことは うつしみの ことさりまして いはとこに かくりましぬれ そこをしも あやにかなしみ むさしぬの あらくさ木の根 踏みさくみ なづさひ行きて かしこみも み墓拝みて
いにししへぬべつ