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縣居通信


【縣居通信5月】真淵翁生家跡(顕彰広場)を訪ねて
 賀茂真淵(かものまぶち)が生まれ育った家は、当記念館の東、地元の人々が灯篭坂(とうろうざか)とよぶ急坂の下にありました。現在は、左の写真のように、顕彰広場となり、真淵翁のレリーフや詠んだ和歌などが刻まれた顕彰碑が立っています。地元の古老が、「戦前までは家が残っていて、家の前を通る時は、頭を下げて通ったもんだ。アメリカ軍の攻撃で一番先に燃えてしまった。」と話していました。
 真淵は、地元伊場村の庄屋を務めた岡部家の出身で、明治時代の当主岡部譲(ゆずる)氏は、全国的に著名な神社の神官として活躍しましたが、真淵の業績をたたえる活動に取り組み、生家の絵もあらわしています。(右の写真) この生家の図では、茅葺の一軒家に木の門、大きな松の木がある家が表されています。よく見ると絵の左側に隣接して家があり、西隣りが主屋で、この家は真淵の父岡部政信が隠居所として建てた家であることも想像できます。

◆昭和19年撮影の生家写真
 真淵の生家についての調査を進めていたところ、縣居神社宮司から、昭和19年撮影の写真があるとの話を聞き、この度、記念館展示室にも展示することができました。
 左の写真は、南側からのもので、今もある誕生の地の石碑、そして家の前に大きな樹木があったことがわかります。
 右の写真は、東側の灯篭坂を少し上ったところから見下ろす角度で撮影したものです。昭和になっても茅葺の家が保存されていたことがわかります。(生家写真は県居神社から提供)

◆生家が舞台となった真淵の長歌「岡部の家にてよめる」
 賀茂翁家集には、この岡部の家に真淵が帰省した際に、妹と再会する場面を表した長歌が収められています。長歌の口語訳を紹介します。家族思いの真淵の人柄がしのばれる作品です。