【縣居通信4月】『源氏物語』と「もののあはれ」
「いせものがたり(伊勢物語)は
梅のごとく、源氏ものがたりは
櫻のごとく、さごろも(狭衣)は
山吹のごとし。つれづれぐさ(徒然草)は
くす玉につくれるはなのごとしと、ひとはいひけり。」(『花月草紙』153)
『花月草紙』は、江戸時代の政治家、寛政の改革で有名な
松平定信(1759~1828)の随筆です。松平定信は、賀茂真淵が和学御用として仕えた田安宗武の七男です。父親の影響を受け、漢学や和学、歌学などの学問に通じ、老中引退後は、白河藩の藩政を行うかたわら国文学書の筆写や書物の執筆にも力を入れました。分けても「櫻のごとく」と称した『源氏物語』は定信愛読の書であり、7回にわたって筆写しています。
『源氏物語』は平安時代中期の長編小説、作者は藤原道長の娘、中宮彰子の家庭教師であった紫式部です。『源氏物語』は成立当初から人々に愛読されました。菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)による『更級日記』には、『源氏物語』を読みふける作者の様子が記されています。
以後『源氏物語』は多くの知識人に読み継がれてきたのですが、社会の変化の中で、様々な見方が生まれてきました。例えば、仏教界の中には、『源氏物語』を男女交合の好色を教える書であると断定し、その制作者である紫式部は罪過のため奈落に落ちたとする考えを述べる者も出てきました。また、儒教の立場から、江戸時代初期の陽明学者である熊沢蕃山(くまざわばんざん)は、『源氏物語』を古の高貴な人の美風・心づかいを精しく記したものであるとし、「すべて此物語は、風化(徳によって人を教化すること)を本(根本)としてかけり」と『源氏外伝』という書物で言っています。
このような仏教的、儒教的立場を越えて、新たな視点で『源氏物語』を読み解こうとしたのが近世の国学者たちでした。
契沖は、『源氏物語』を仏教的、儒教的な考え方とは本質的に違う物語であると考え「此物語は人々の上に美悪雑乱せり。もろこしの文などに准(なぞ)らへては説(とく)べからず。」(『源注拾遺』)と言っています。また、
賀茂真淵は『源氏物語新釈』で「そのよしあし自然に心よりしられて男女の用意となれる事(男女の深い心づかいとなっている事)、日本の神教そのものを以て風喩する(思いをよせている)也」とし、好色の文学であるという論を批判しています。
そして、『源氏物語』を純粋に文芸の立場から見たのが
本居宣長でした。宣長は、『源氏物語玉の小櫛』で「物語にいへるよきあしきは、よのつねの儒仏などの書にいふ善悪とは、同じからざることあり。されば物語にいへるよきあしきをひたぶるに(一方的に)儒仏の善悪とのみ心得ては、たがふふしおほかるべし。」と言って、物語の「よきあしき」と儒教や仏教の「善悪」とは本質的に違うとしています。さらに、「此(源氏)物語の本意を、勧善懲悪といひ、殊には好色のいましめ也といふは、いみしきしひごと(ひどく事実を曲げたこと)也」と言って、『源氏物語』の本意を「よむ人の心を感ぜしめ、
もののあはれをしらせたり。」としています。同じ『玉の小櫛』で宣長は、「あはれ」を「見るものきく物ふるる事に、心の感じて出る、嘆息の声」だととらえ、後世「哀」の字を書いて、ただ悲哀だけととらえるようになったが、「あはれ」とは悲哀に限らず、「うれしきにも、おもしろきにも、たのしきにも、をかしきにも、すべて“ああはれ(=人が感動して言う言葉)”と思はるるは、みなあはれ也」と説明しています。
宣長の「もののはあれ」の指摘は、『源氏物語』を「勧善懲悪」や「戒律」の議論から解き放ちました。それは、宣長の深い人間理解によるものです。宣長は、人の心というものは「からぶみに書るごと、一かたにつきぎりなる(一面的な)物にはあらず、深く思ひしめる事にあたりては、とやかくや(「ああしようか、こうしようか」)と、くだくだしくめめしく、みだれあひて、さだまりがたく、さまざまのくま(隠し立て)おほかる物」であると言っています。途方もなく複雑な人の思いを、宣長は「もののあはれ」という言葉を使って説明したのです。宣長の冷静で、それでいて暖かい眼差しを強く感じます。
冒頭紹介した『花月草紙』で、松平定信は、
「此ものがたり(源氏物語)を、ただあはれをつくしたるものにて、させることはり(たいした道理を)あらわしたるものにはあらずと、もとおり(本居宣長)のいひたるはおかし。」
と、宣長の「もののあはれ」論を批判しています。『源氏物語』を愛読した定信でしたが、政治家として、朱子学の実践者として、宣長の「もののあはれ」論に与することができなかったのでしょうか。