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縣居通信


【縣居通信12月】江戸の古学(国学)ブーム ~『浮世風呂』から~
(本居信仰にて、いにしへぶりの物まなびなどすると見えて、物しづかに人がらよき婦人二人。おのおの玉だれの奥ふかく侍るだらけの文章をやりたがり、几帳のかげに檜扇でもかざしてゐさうな気位なり)
鴨(かも)子「鳧(けり)子さん。あなたはやはり源氏でござりますか。」
鳧子「さやうでござります。加茂翁の『新釈』で、本居大人の『玉の小櫛』を本にいたして、書入をいたしかけましたが、俗(さとび)た事にさへられまして筆を採る間がございませぬ。」
鴨子「先達てお噂申た『庚子道の記』は御覧じましたか。」
鳧子「ハイ見ました。中々手際な事でござります。しかし疑しい事は、あの頃にはまだひらけぬ古言などが今の如ひらけて、つかひざまに誤のない所を見ましては、校合者の添削なども少しは有たかと存ぜられますよ。」
角川文庫『浮世風呂』より

 江戸時代後期の戯作者式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』の一節(三編巻之下)です。『浮世風呂』第三編が刊行されたのは文化九(1812)年、真淵没(1769年)してほぼ半世紀のちのことでした。
 ここに登場するかも子とけり子は古学崇拝者(本居信仰)という設定になっています。舞台は江戸の風呂屋(女湯)。二人の会話から、県門を中心とした古学(国学)が江戸で流行していたことが分かります。「かも」も「けり」も『万葉集』によく使われる詠嘆の助詞・助動詞です。それに使われた「鴨」「鳧」は、ともに万葉表記です。登場人物を女性にしたのは、県門に女性が多かったという事実を考慮したものでしょう。
 『新釈』は、賀茂真淵著の『源氏物語新釈』、宝暦八(1759)年に成立しています。本居宣長著の『源氏物語玉の小櫛』は寛政十一(1799)年に刊行されています。二人の著書が広く一般の人々に読まれていたことが分かります。
 『庚子道の記』は、享保五(1720)年庚子(かのえのね)」の年に、「武女(たけじょ)」という女性(素性は未詳)が、尾張から江戸への道中の見聞、感想を「いにしへぶりの書きざま」で記した日記です。橘千蔭・村田春海の序文が添えられ、本文には清水浜臣(しみずはまおみ)の頭注がついて、文化6(1809)年に出版されました。この本が、当時話題となったことが二人の会話から分かります。「鳧子」が、「あの頃(享保五年)にはまだひらけぬ(解明されていない)古言が今の如ひらけて、つかひざまに誤のない」ことを取り上げて、校合者(この場合は清水浜臣)による添削(校訂作業)があったと考えている点が注目されます。江戸を中心に本格的な古言の研究が始まったのは、真淵の出府(元文二(1737)年)以降のことと考えられ、「鳧子」の言葉は、古言の研究が古学(国学)にとって大変重要な要素であったことを示唆しています。
 「けり子」と「かも子」の会話は続きます。

鳧子「イヱモウ、松のおもはん事もはづかしでござります。此間ネ、あまりいやしい題でござりますがおかちん(餅)をあべ川にいたして、去る所でいただきましたから、とりあへず一首致ました。
 うましもの あべ川もちは あさもよし きな粉まぶして 昼食ふもよし
といたしました。ヲホヽヽヽヽ」
鴨子「ヲホヽヽヽヽ、冠辞がふたつ立入て、至極面白ううけ給はります。まぶしてなどが、どうか古言のようにきこえまして、ヲホヽヽヽヽ」

 鳧子は、「恥ずかしい」という気持ちを「いかでなほありと知らせじ高砂の松の思はむことも恥づかし」(『古今和歌六帖』)にかけて言っています。そして、「うましもの」と「あさもよし」という二つの冠辞(枕詞)を使った歌(狂歌)を披露しました。一方、鴨子は鳧子の歌を「冠辞がふたつ立入て」と褒めています。「冠辞」という言葉を使い、『冠辞考』を著した真淵と県門の流れを意識していることが分かります。
 『浮世風呂』の一節から、真淵によって樹立され、県門の人たちに受け継がれた古学(国学)が、大衆の中に広まっていったことがよく分かります。このようすを泉下の真淵はどのように見ていたのでしょうか。