【縣居通信10月】「義之」をどう訓むか・・契沖・真淵・宣長の解釈
「余明軍(よのみやうぐん)の歌一首
標結(しめゆ)ひて 我(わ)が定めてし 住吉(すみのえ)の 浜の小松(こまつ)は 後(のち)もわが松」(『万葉集』巻三 394)
(印を付けて自分のものと定めた住吉の浜の小松は、後々も私の松だ。)
「余明軍」は渡来人で百済(くだら)王族系の余氏と推定されます。大伴旅人(おおとものたびと)の従者(「資人」)を勤めました。旅人が死去したときの挽歌5首が『万葉集』に掲載されています。「標」は自分の所有を示すための目印。結婚の約束をすることを「標結ひて」と譬喩的に言っています。歌の訓と口語訳は、岩波文庫『万葉集』(2013年版)によりました。原文は次のようになっています。
印結而 我定義之 住吉乃 浜乃小松者 後毛吾松 (岩波文庫『原文万葉集』より)
この原文に対して、古来、多くの歌人や学者が、様々な訓や解釈をしてきました。
江戸時代初期の国学者、契沖は、『万葉代匠記』(まんようたいしょうき)で、この歌を「シメユヒテ ワカサタメ
コシ スミノエノ ハマノコマツハ ノチモワガマツ」と訓(よ)んでいます。「義之」を「コシ(来し)」と訓み、「自分のものと定めてきた」と解釈しました。しかし、「義之、惣して此義の字を用いたるに、心得かたき事あり」として、「義」の字の解釈について疑問を唱えています。一方で、巻七 1324 の歌では「結義之」を「ムスヒ
テシ」と詠んでいます。しかし、ここでも「『義』を『て』とよむ事心得かたし」と言っています。契沖は「義之」の訓や解釈について結論づけることができませんでした。
賀茂真淵は『万葉考』で「今本(寛永版本)、これを『義之』と書きて『きし』と訓たれど、字も訓も誤とす」として、「我定
義之」を「我定
篆之」と改め、「ワカサタメ
テシ」と訓んでいます。そして、『万葉考別記』にて、万葉集における「義之」を用いた歌を紹介し、「義之・・必ず
てしとよまざれば、その歌の意をなさゞるなり、さて先歌の意をかく定めたる上に思うに、義は篆の字にて義・篆の草(そう・・草書)甚近き故に誤れるもの也、仍て考(『万葉考』)には篆と書つ」と説明しています。真淵は、今本の表記を誤字とし、「てし」と訓むべきであると断言しました。
真淵から万葉集の指導を受けていた本居宣長は、「義之」の訓について真淵に質問しています。『万葉集問目』六に「義之」の訓に関するやりとりが載っています。宣長は、「義之ハ、篆字の誤・・・サル事ナルベシ、サレドモ、愚ナル心ニ疑ハレヤラズ」と真淵の説に疑義を唱え、「義ハ羲ノ字ニテ、カノカラ国の王羲之(※)テフ人ノ事ニテ、手師ノ意ニ用ルカ・・・宇志(真淵)ノ御説ヲ疑テ、己ガ考ヘヲ申ス事・・」と自説を述べて真淵の意見を求めています。それに対して真淵は、「・・・皆こは後にいふ、はいかい人の説ぞといへり、・・おのが説を必定とするにはあらず、猶も別の考をなし給へ」と言って、宣長の意見に異を唱えています。
しかし、宣長は『万葉集玉の小琴』で、「義之は、てしと訓べし、此外、四巻言義之鬼尾(いひてしものを)・・これら皆同じ。てしと訓べきこと明らけし、さて、是をてしとよむは、義字をての仮字に用たるにはあらず、故に義之とつゞけるのみにて、義とのみいへるは一ツもなし、義は皆羲の誤にて、から国の王羲之といふ人の事也」として、「此人書に名高き事、古今にならびなし、御国にても、古より此人の手跡をば、殊にたふとみ賞する故に、手師(てし)の意にて書る也」と言っています。
さらに、「師の説には、義之をてしと訓は、義を篆の誤也といはれしかど、篆を仮字に用たる例なく、又義之とつゞけるのみにて、義とはなして一字書る所もなければ、義之と二字つゞきたる意なることうたがひなし」と真淵の説を批判しています。(宣長は『玉勝間』でも同様の意見を述べています。)
江戸時代の国学者たちは、万葉かな一つの訓や解釈にもこだわって古典の研究を進めました。「義之」の訓一つにも、契沖・真淵・宣長の人柄や研究のようすが伝わってきます。そして、先人の研究や意見を参考にしながらも、考えることを止めず、自分の意見を堂々と主張していたことがわかります。
※ 王羲之(303~361)・・・中国東晋時代の政治家・書家。書の芸術性を高め、書聖と称されている。その書は、日本でも奈良時代から手本とされていた。