【縣居通信8月】江戸時代の養子制度
~真淵も、実父の政信も、最初の師の国頭も養子であった~
「(縣居大人は)姉婿政盛の養子になり給へるが、呼名を荘助、また三四と云ひ、実名を、始め春栖、また政躬と名告られ、また此後、政藤と改められたり。かくて思ほす旨の有られしか(=お思いになることがお有りになったのであろうか)、其家を退きて、・・・安右衛門政長の養子となりて、其女を娶給ひしが、此女、享保九年九月に歿られぬ。此年大人二十八歳になり給へり。さて大人は、真言宗の僧にならむと、父母に願はれしに許容なく、其後また濱松驛の本陣、梅谷甚三郎方良が婿養子となり。」
平田篤胤は『玉襷(たまたすき)』で賀茂真淵をこのように紹介しています。真淵は3回養子あるいは婿養子に行っています。寺田泰政氏は、この度々の養子経験が「人柄を作る上で、若い真淵に大きな影響を与えた」と述べています。
江戸時代は、養子・養女・婿養子が頻繁に行われていました。真淵の父親、岡部政信も、最初の師、杉浦国頭も養子でした。本居宣長も大平を養子にしています。
江戸時代の養子制度について、大正から昭和にかけて活躍した法学者 中田薫博士の『徳川時代の文学に見えたる私法』をもとに調べてみましょう。
①養子は総領 江戸時代、子のいない人が養子をとるときは、養子は男女を問わず総領の身分を取得しました。養親にその後実子が出生しても、総領の身分を奪われることはなかったようです。中田博士は、江戸時代中期の浮世草子作家 西沢一風(にしざわいっぷう)の『本朝藤陰比事』から「一たび養子に貰ひ惣領に立し上は、たとへ実子十人廿人出生したればとて、不深切(=愛情がなくなること)の儀毛頭これなし」と引用しています。また、公文書である「地方公裁録」からも「養子極置実子出生といふとも、実子跡式不継之」と引いています。
②婿養子、財産は妻に このように養子は総領として家を相続する権利を持って
いたようですが、婿養子の場合は、往々にして養子は家名のみを相続し、遺産は家の娘が相続したようです。江戸時代中期の浮世草子作家 涼花堂斧麿(りょうかどうおのまろ)作の『当世誰が身の上』には「今比(いまごろ)地下(ぢげ=一般庶民)の養子入婿みな娘に譲りて(=財産が娘に譲られるので)、すこしにても女の心に入らざれば、其のまま追い出し、子ある中は(=子がある間柄になっても)生甲斐もなき男の(=婿養子は生甲斐もない男として)胸をさすり暮し、(妻への)追従軽薄をいひならべ、下人にをとりたる事おほきに」と、財産権がなかった婿養子の空しさが語られています。しかし中には、養父が、その財産を娘一人に与えるのではなく、娘と婿養子との両人に対して共同に譲与する事例もあったようです。
③離縁したときは・・ また、婿養子の離縁の時、その子の帰属について、江戸期前半は「男子ハ父ニ女子ハ母ニ従フ」ことが原則だったようです。評定所の御定書をまとめた『庁政談』(1738年編集)には「婿養子離縁之上、出生之男子は夫之方江可引取」と出ています。ところが、その原則も後半になると改まり、「男女共ニ父ニ従フ」ようになります。江戸時代の施政上の問答集『諸例撰要』には「書面之通りは、婿養子離縁之上は、出生之子養子方え可連帰事に候」(1834年の問合)と出ています。
ちなみに、婿養子が離縁される場合に、妻との夫婦関係は当然解消されるわけですが、離別状の要不要についてははっきりしていません。武士階級では必要としていなかったので、庶民も同様であったと中田博士は推定しています。
中田博士は、「順養子」についても説明しています。江戸時代は直系親族間の相続のみが行われ、傍系親族の相続権は認められていませんでした。これを補うための手だてとして、武士階級においても、庶民階級においても「順養子」が行われていました。江戸時代、弟を養子にしたり、兄弟の子を養子にしたりすることが頻繁に行われていたのです。
本居宣長は『玉勝間』で「やしなひ子」と題して一文を書いています。宣長は、昔はなかった養子制度が今は行われているが、血のつながりがなくても子として継がせたものの祭りを親が受けることは悪いことではないと言っています。江戸時代の人々は、自らに与えられた運命を正面から受け止め、たくましく生きていったのです。