【縣居通信7月】「県門…賀茂真淵の弟子」四天王、三才女
江戸、日本橋浜町の縣居(あがたい)と号した賀茂真淵翁の住まいには、多くの門人(弟子)が出入りし、教えを乞うていたようです。また、伊勢松坂の本居宣長のように、遠隔地の弟子は、質問の手紙を真淵に送り、真淵翁が書状の行間等に返事を書いて送り返すという形で学んでいました。真淵の門人「県門(けんもん)」は、340人ほどいたと言われています。その多くの門人の中で、江戸で活躍した四天王、三才女と呼ばれた高弟がいました。
◆県門(けんもん)の四天王~村田春海(むらたはるみ)・橘千蔭(たちばなのちかげ)・楫取魚彦(かとりなひこ)・加藤宇万伎(かとううまき)
「村田春海(むらたはるみ)」「橘千蔭(たちばなのちかげ)」…二人は、小さい時から真淵に教わった門人です。真淵が江戸に出て世話になった乾鰯問屋の村田春道、江戸町奉行所の与力加藤枝直は、真淵の支援をするだけでなく、自分の子どもの指導を真淵に依頼しました。その子らが成人し、江戸の門人を代表する高弟、村田春海、加藤(橘)千蔭となりました。
村田春海は、親から受け継いだ店を破産させますが、学問の道に励み、仮名遣いや五十音の研究に秀で、歌集「琴後集」を出しています。
橘千蔭は、父の跡を継ぎ、町奉行所与力となるものの54歳で職を辞し、万葉集研究の大著「万葉集略解(まんようしゅうりゃくげ)」全32巻を記しています。
「楫取魚彦(かとりなひこ)」…下総国佐原生まれの通称伊能茂左衛門、日本橋浜町の真淵の住まいの近隣に居を構え、仮名遣いの研究書「古言梯(こげんてい)」等を出版。万葉調の作歌にも励みました。親戚に実測で日本地図を作製した伊能忠敬(いのうただたか)がいます。
「加藤宇万伎(かとううまき)」(別名河津美樹)…幕府の役人、大阪や京都にも勤務し、語学や万葉集の研究に功績をあげ、雨月物語などの著者でもあった上田秋成を指導しました。土佐日記解、古事記解など、古典の注解を数多く記しています。
◆県門の三才女~鵜殿余野子(うどのよのこ)・油谷倭文子(ゆやしずこ)・土岐筑波子(ときつくばこ)
鵜殿余野子(うどのよのこ)…旗本の家柄に生まれ、若くして紀州徳川家の大奥に仕え、後に大奥年寄りになりました。瀬川・清子(きよいこ)とも呼ばれました。詠歌や和文の制作に優れ、「月次消息(つきなみしょうそく)」と題した往来本(女性の手紙の月ごとの手本)を著しています。
油谷倭文子(ゆやしずこ)…江戸京橋の商家伊勢屋油谷平右衛門の娘。20歳で亡くなりました。真淵は、実の子のように可愛がり、倭文子の死に際し、長歌「倭文子をかなしめる歌」を詠んでいます。遺稿集「文布(あやぬの)」に紀行文や書簡、歌集が収められています。
土岐筑波子(どきつくばこ)…旗本土岐頼房の妻で本名茂子。詠歌に優れ、残された歌が真淵の弟子により「筑波子歌集」としてまとめられました。
真淵のきめ細やかな指導で、多くの逸材が生まれ、学びの輪が広がっていったと思われます。